「抱く」をめぐって ① 
                    〔歌のさんぽみち〕
 
 
 まがなしく小さき鼓動子を抱けばわが血に混り打つかと思ふ
                       (河野裕子)
 
  愛しいほどに小さな心臓の鼓動は、その子を抱いているとまるで我が血脈に混じってトクトクと打っているかと思えるほど。河野裕子のこの歌は、出産によって別の生命体となったはずの子の心音が小さくも確実に響いてくる、しかも自らのそれと混じり合うように打っているというものだ。
 
 母と子の、こんなにも静謐で濃い時間は「抱く」ということによって得られる。しかれども、「抱く」とはいったい何だろう。何を行い、何をもたらすものだろう。あまりに、日常的過ぎて分かっているようでわかっていない。
 
 そこで、「抱く」を詠んだ歌をいくつかあげてみる。
 
 みどりごはふと生れ出でてあるときは置きどころなきゆゑ抱きゐたり
                       (今野寿美)
 
 今野寿美が詠んでいるような「抱く」は、「良き母」のストーリーからすれば不謹慎な母だと言われるに違いない。まず、「みどりごはふと生れ出でて」などという言葉が置かれているが、胎児は十月十日母親の胎内にいて、出産準備を経てきたはずなのに何だそれは、となる。そして、「あるときは置きどころなきゆえに抱きいたり」とされ、置きどころが無いなど不謹慎だ、とされそうだ。
 
 これは、前回取りあげた米川千嘉子の歌「みどり子の甘き肉借りて笑む者は夜の淵にわれの来歴を問ふ」を思い出してみると良い。アナタハダレ? ドコカラキタ? ナニヲシテイルノ?  と乳児の母は問われているような気がした。それは何だったのか、だ。
 
 生まれて来た子は、絶対的受動体として出現する。そのまま放っておいては絶滅してしまうのだ。授乳して、排泄物の処理をして、寝るのを見届けるのだが、それらは夫婦間のような応答可能態のなかにないのだ。嬰児から乳児へ、そして幼児へと育つなかで、最初から「母」が約束されているのでなく、「母になる」過程のなかにあることなのだ。
 
  「母になる」とは、生物学的に子を産んだだけではない。生物学的に産んだ後に授乳を重ねることだけでもない。子を抱いて、その子に母に抱かれる安心と安定が生まれ、母を通して世界に向き合う種子ができるまでを含む。
 
 かくして、今野の歌も米川の歌も、「母である」とされることと自分なりに「母になる」こととの間隙から生まれたのではないかと思われるのだが、どうだろう。
 
 「抱く」にかかわる短歌の旅はつづく。順に取りあげてみたい歌を、下記にかかげてみる。あなたは、これらの歌をどう受け取るだろうか。
 
 子を抱きて穴より出でし縄文の人のごとくにあたりまぶしき
                       (花山多佳子)
 
 抱くこともうなくなりし少女(おとめ)子(ご)を日にいくたびか眼差しに抱く
                       (小島ゆかり)
 
 火も人も時間を抱くとわれはおもう消ゆるまで抱く切なきものを
                       (佐々木幸綱)
 
 子は抱かれみな子は抱かれ子は抱かれ人の子は抱かれて生くるもの
                       (河野愛子)
 
遊ぶ子の群かけぬけてわれに来るこの偶然のような一人を抱けり
                       (川野里子)
                                                          (つづく)