ひきこもりの往路・滞在期・帰路 
 
 
  石崎森人さんは、ひきこもっているときには自らを『若き日を全力でムダにしている』と思っていた。そして、いっこうにひきこもりからの出口が見えなかった。
 
 しかし、ひきこもりから脱却できた。ひきこもっていたときは20代前半で、脱却したときは30代になっていた。
 
 いったい、脱却できたきっかけは何だったんだろう。
 
 石崎さんの手記では、石崎さんなりの言い回しで『取り戻しの過程』として書かれている。
向精神薬を飲んでいたが、ある日オーバードーズで入院のはめになり、薬が怖くなって飲む量を控えた。退院して病院の外に出たとき、わずかに気圧の変化を感じた

 
『ほかにも景色の色彩や、人の感情など、いままで鈍くなっていたことがありありとリアリティを持って迫ってきた。降り注ぐ刺激に半ばパニックになってもいたが、徐々に落ち着きを取り戻す。それまでは公共の場で大声で話しても何も感じなかったが、断薬してからはそれが周りの人に聞こえていたり迷惑なんだという感覚を取り戻すようになる。こうした“取り戻し”の過程で、少しずつ人間関係の感覚を取り戻すようになり、脱ひきこもりのきっかけにもなった。』
 
 私は、この部分を読んで芹沢俊介氏がひきこもりについて語るなかで、「底つき感」というものがあるだろうと述べていたことを思い出す。「底つき感」とは、水のなかで最初はバタバタするが、身を任せたときに自らの浮力を感じゆっくり浮き上がって来る、その一番底をついたときの感覚のことだ。
 
 芹沢氏は、ひきこもりの期間を大きく〔往路-滞在期-帰路〕の段階として考えている。〔往路〕では、とにかく「退避」だ。水中で言えば、沈んだばかりで不安でもがく。そして、〔滞在期〕。ここで社会からの「追いかけ」や「引き込み」、「引き出し」刺激などをやり過ごせば自らの浮力を感じることができる。
 
 石崎さんが感じたことは些細なことかも知れない。病院の外に出たときのわずかな気圧の変化、目に見える風景のリアリティ、景色の色彩、落ち着いて見聞きしたときの人の存在、人の感情、など。
 
 向精神薬の服用は、不安を打ち消したいがための「もがき」の一つだったろう。その「もがき」のバタバタを止めた(断薬した)とき、自らの自らによる感覚として「底つき感」が訪れたのだろう。(つづく・鮮)