自分をそのままでいさせてくれない社会 
 
 
  石崎森人さんによる体験手記を続ける。(「ひきこもるキモチ」不登校新聞2013年1月に連載)
 
『社会は自分をそのままでいさせてくれない世界だ。子どものときから学校の集団生活による矯正が始まる。目に見えない集団の雰囲気「空気」が読めないと、すぐに仲間はずれにされ、マイペースはNGだ。自由な発想は、子どもらしい発想だけ許され、大人が考える子どもらしさのワクを外れれば注意される。毎朝起きないといけないし、興味のない勉強もしないといけない。それらをこなせなければ落ちこぼれの烙印を押される。落ちこぼれになった人にはわかると思うが、そうなると、大人は平等に接してくれなくなる。子どものなかでも大人にかわいがられる子と、そうでない子がいて、期待感やチャンスが明確に変わる。期待されなくなれば、自分は社会にとっていらない子なんじゃないかと思い始め、やる気がなくなり、あらゆることが面倒なことになり、やがて自分を貶める社会を憎み始める。真面目に生きることや努力の意味がわからなくなり、ますます社会から離れていく、脱社会のスパイラル(螺旋)が始まる。』
 
 自分が自分のままでいる感覚、マイペースでやっていた感覚が、だんだんと周りとの関係のなかで齟齬をきたし、『社会的自己』として存在する自分が『自分(じぶん)』から切り離されていく過程がとてもよくわかる。
 
 最近、「極上の孤独」(幻冬社新書)を上梓した下重暁子氏は、「集団の中でほんとうの自分でいることは難しい」と書いている。
 
『人と群れる、人の真似をする、仲間外れになることを恐れる、物事に執着する……。そんなことを続けていると、あっという間に「個」が喪われていく。折角育っていたものが、容赦なく消えていく。』
 
 下重氏が「育っていたものが、容赦なく消えていく」と書いているものは、「個性」のことだ。
 
『孤独を知らない人は個性的になれない。「孤」を育ててきた人は、気づかぬうちに「個」が育っている。「孤」であることは手段であり、「個」はその結果である。』
 
  石崎森人さんは、下重氏の言う「個」を守り育てるために「孤」を手段として選んだ。しかし、自覚的・意識的にしたのでなく、気がついたらそうしていたというか、周りとの関係のなかで喪われていく「個」に踏みとどまるために、ひきこもったのだ。
 
  私は、これが、思春期・青年期における「ひきこもり」の実相だろうと思う。「孤」を手段として選んだことは、必要で大事なことだ。ただ、とても時間がかかることが課題として残る。(つづく・鮮)