落ちぶれ、うらぶれた自分 
 
 
  はからずも、「ひきこもり」になってしまう・・・その悪夢のループから、なかなか抜け出せなくなってしまう。そういう貴重な体験を手記にまとめた青年がいる。(石崎森人「ひきこもるキモチ」不登校新聞2013年1月に連載の手記より)
 
『夕暮れ時は、下校する小学生の笑い声が聞こえてきたり、新聞配達のバイクの排気音が薄暗い部屋に響く。楽しそうな声や、労働の音が、からっぽの心に入り込み、焦りと虚しさを生む。「社会人だったら、誰かと楽しそうに話してただろうか」とか「いまさら働くのはムリだな」など、今の状況への後悔と嘆きと他人へのうらやましさが入り混じり、うつになる。起きたくないので限界まで横になる。夢のほうがずっとよい。現実そのものがつらいというのは、悩みごとがあるというレベルを超えていて、まるで汚い公衆便所で生活をさせられているような苦しさがあった。』
 
 
『外に出て誰かと顔を合わせたくない気持ちは、長引くほど強くなる。深夜のコンビニすらイヤで、早歩きで店員と目を合わせず退店する。不審者を見る目でみられてると思っていた。落ちこぼれた自分を世間にさらすことになると思うと脂汗が出るし、顔も髪も身体もひどく不健康で薄汚くて、恥ずかしい。誰かと話さないといけなくなっても、オドオドして目を合わせることもできない。外界は恐怖で満ちている。同年代は、はるかずっと先を行っている。惨め、惨め、惨め。外に出なければ、惨めな気持ちに直面しなくて済む。外に出れば、惨めな気持ちになると思っていた。』
 
 
 なんという真摯で直裁で、寸分の足し算も引き算も無く、ありのままの表現だろうか。そして、これほどまでに落ちぶれ、うらぶれる自分を的確に見つめ、分析できるのは靱さ(つよさ・しなやかさ)としか思えなくなるほどだ。
 
 ひきこもっていても、世間は音を通じてドカドカと侵入し、自分の現在を焙り出す。それを見たくないがゆえに、ギリギリまで眠る。限界一杯まで眠るために、深夜起きて用足しもする。そうなれば人と出くわし、それがまた怖い、恥ずかしい。
 
 落差感、卑下、怠惰、恐怖、恥辱・・・どれもこれも、小規模ながら日常に満ちていることだ。その記憶や想像がなくって、『君は一人ぼっちじゃない』って、どうなんだろうか。(鮮・つづく)