『君は一人ぽっちでない』というメッセージ
「ひきこもり」は、当人にとっては「社会的自己」からの退避という切実な動機から出発している。
ところが、『「社会的自己」からの退避』と、こともなげに言ったけれども実に大変なことだ。周りの人間はほとんどが『退避』などできないし、すべきでないし、よもやそう思っても自分をなだめ、社会に通用できる自分への改変努力をしようと考えるだろう。
だから、「ひきこもり」をしはじめると、とてつもない孤立感を感じるだろうと思う。
そういうとき、よく周りから『君は一人ぽっちでない』というメッセージを送ることがある。
このメッセージには、意味が2通りある。というか、2つに別れていく面がある。
1つには、『待ってるよ』という意味。キミが経験してきた世間は過酷で生きづらかったかも知れないが、決してそうばかりじゃないよ。だから、ゆるやかなステップを踏んでいけるよう準備して待っているよ。
1つには、『待ってるよ』という意味。キミが経験してきた世間は過酷で生きづらかったかも知れないが、決してそうばかりじゃないよ。だから、ゆるやかなステップを踏んでいけるよう準備して待っているよ。
2つには、ひきこもるっていうのは『あり得るよ』という意味。人生には、一人になりきることが大事なことがある。キミのしていることはわかるよ。
2つの意味をわかりやすくして、【A】=『待ってるよ』と【B】=『あり得るよ』とします。
【A】=『待ってるよ』は、『おいで、おいで』をしている。『おいで、おいで』は、過激でハードな「ひきこもり引き出し屋」みたいに目立ったことはしないが、ソフトに「ひきこもり」をやめようよと誘う。そして、『君は一人ぼっちじゃない』と言いつつ、現在の君の状況では『一人ぼっちだ』という心象を与えかねない。
【B】=『あり得るよ』は、社会的自己から退避する「動機」を理解し、プッシュする。プッシュして、その先に歩く道は当人のものだ。もともと自分の歩く道は自分の道であったし、これからもそうだ。「ひきこもり」という立ち止まりも、これまでとこれからの間にあることで、それも人生の道程のなかにあることだ。 (鮮・つづく)