「あそぶって あほ」?!?
 
  映画「万引き家族」より
 
 目黒区で起きた5歳女児虐待死事件で、船戸結愛ちゃんが覚え立てのひらがなで「反省文」を書かされていたことが報道されました。「ゆるして ゆるして」と綴られた文字を見て、涙が出てきます。
 
 「反省文」には、こんな言葉もあります。
 「きのう ぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす
 これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだからやめるので もうぜったい ぜったいやらないからね ・・・」
 
 5歳の子どもが遊ぶのを、「あそぶってあほみたいだからやめる」「なおす」「ぜったいやらない」と言わしめるのは、いったい何なのか。そう言わしめているのは、結愛ちゃんが自分の実子でない限り存在することが気に入らない、まして楽しそうに遊んでいるなんてもってのほかだと思えてしまう父親です。
 
 「実子である・血のつながりがある」と「実子でない・血のつながりがない」との間にある大きな「裂け目」はなぜ、出来てしまうのか。いったい、何なのか。
 
 この「裂け目」に対して、結愛ちゃんの実母である母親はなぜ抗し切れなかったのか。あるいは、自らも結愛ちゃんへの虐待実行者となっていたのはなぜなのか。
 
 私は、その鍵は芹沢俊介氏の次の言葉にあると思います。引用してみます。(「養育事典」明石書店刊。「虐待」の項より抜粋)
 
 『生まれた子どもにとって最良な状態は、できうる限りすみやかに産みの母親(生物的な母親)が自分の受けとめ手としての母親に移行してくれることである。』
 
 芹沢氏によれば、『産みの母親(生物的な母親)』と『受けとめ手としての母親』とは別だというのです。そして、別であり、移行していくもの、移行すべきものだというのです。『産みの母親』は出産の時点でその生物的な役割を終えますが、『受けとめ手としての母親』はそこから役割を意志的に開始します。
 
  芹沢氏は、『産みの母親(生物的な母親)』から『受けとめ手としての母親』への移行の条件として次の5つをあげています。
 
①この子の母親になるのだという覚悟、意志(妊婦) ②新しいいのちに没頭できる態勢(妊娠・出産) ③育児に向かう母親への周囲の協力 ④生活・環境が安心でき安定的である ⑤産みの母親が受けとめられ体験を持っている (小木曽による要約)
 
 『受けとめ手としての母親』について詳しく展開する余裕がありませんが、とても重要な視点だと思います。
 
 結愛ちゃんの実母・船戸優里容疑者(25)には、おそらく前の結婚の失敗が影を落とし、「実子である・実子でない」に囚われる船戸雄大容疑者(33)との関係のなかで自らの『受けとめ手としての母親』としての役割も喜びも見失っていたと思われます。そこから、「裂け目」が生じたと思います。
 
 なぜなら、『受けとめ手としての母親』が向き合うのは、『産みの母親』だけでは向き合うことができない、自分とは異なった・新しい・未来に向かう『人』だからです。希望の源泉です。
 
 是枝裕和監督による「万引き家族」では、虐待を受けた女の子を家族に迎え入れ、暮らしていく場面があります。映画の家族のなかで、この『受けとめ手としての母親』がどう描かれているか、早く観てみたいと思います。(小木曽)