「ひきこもり」は状態像 
 
 
 このコラムで、立て続けに「事件・報道」欄を書くことになっています。新幹線車内で「誰でもよかった」として乗客に刃物で切りつけ、死傷させた事件が起きました。切りつけられた女性の叫びに気づいた男性が止めに入ったところ、逆上した犯人がその男性をめった打ちにし、男性は死亡したということです。
 
 
 犯人は、小島一朗容疑者、22歳。不登校、自律支援施設、ひきこもり、精神科通院などの経歴があったことが報道されていて、教育関係者をはじめとした多数の関係者がかかわっていたことが分かります。
 
 小島容疑者による無差別殺傷事件への動機解明など今後進と思いますが、2つほど気がついたことを書きたいと思います。
 
 1つは、中学校で不登校状態にあった小島容疑者が学校へ行くと言ったとき、渡された水筒が古かったので両親に向かって怒りをぶつけたことがあったこと。この話を、事件後に取材に応じた小島容疑者の実父自身がエピソードとして話していることです。
 
 つまり、このエピソードの語られ方はと言うと、『たかが古びた水筒に目くじらを立て、親に凄んで文句を言うような息子』という、突き放したものです。そう思って他の事実を見てみると、小島容疑者は頻繁に家出を繰り返し、母方の祖母と養子縁組をして両親と別れて暮らしていたことが浮かび上がってきます。
 
 古びた水筒のエピソードを、小島容疑者の側からの受け取り方について仮に想像してみると、「またかよ」「いつでもこうなんだよ。あんたらは」です。
 
 上記の小島容疑者の側からの受け取り方は、あくまで想像で確証はありませんが、実父の語ることからはこの水筒を巡るエピソードは『解決されなかった』ことは確かです。実父たちが、解決するように心配りしたり、取り替えたり、導いたりせずに来たことは確かです。
 
 2つ目は、「ひきこもり」というのは、本来は状態像であり、『「いまそのように見える」というだけの意味しかもっていない。ということは、次の瞬間、どう変わるかわからないという変化をはらんだ言葉なのである。』(芹沢俊介)
 
 不登校も、ひきこもりも、変化をはらんだ状態像です。「いまの自分でいいんだ」と思えない状態を、「いまの君でいいんだ」と受けとめる人が身近にいて伝え、「そうだ、いいんだ」という自己同一性への肯定感につながるとき、固定していたかに見えたひきこもりが変化するのです。
 
 小島容疑者のやったことは許されないことですが、彼が受けた固定化と突き放しの苦しみに目を向け、考えなければならないことがあるように思えます。(小木曽)