苦手なことを考える 
 
 
 人の名前が覚えにくいことを今さら自覚したのは、もう一つほかに、言葉の中の「概念」が時として不確かになってしまうことに気がついたからです。
 
  自分でも、(これは難しいなぁ)と思いながらも書いている時に、文章の展開がグラグラし、いったい自分は何を書こうとしているのか分からなくなってしまいました。今年2月、「発達障碍」と「愛着障碍」とについてコラムを書き進めている時に、そのグラグラが頂点に達し、まるでハレーションが起きて目が眩んでしまったようでした。(そのショックでしばらくコラムを休みました。)
 
 パソコンのキーボードに向かう前は、だいたい書こうとするイメージは出来ていたと思っていました。ところが、いざ、一行目から二行目へなどと書き進むうちに雲行きが怪しくなってきました。(あれれっ・・・どうしたんだろう)というわけです。
 
 たとえば、
『このように 愛着障碍は 発達障碍が示すいくつかの特徴と似て・・・』
という文章を書こうとしたとき、抽象度の高い概念である「愛着障碍」や「発達障碍」についての理解(自分なりのつかみ)がしっかりしていないと、全部がグラグラしてきます。
 
●「このように」って、どのように、だろう?
●「似て」って、何がどう似ているんだっけ。自分は何を言おうとしていたんだろう?
●「いくつかの特徴」って、何だっけ?
 
 筆(キーボード運指)は少しも進まず、はたと止まってしまうのです。
 
 それで、それならこういう「概念」を使った文章をこれまではどうしてきたのかと、振り返ってみました。すると、次のようなことをしていたことに気がつきました。
 
●これは大事だな、また難しいなという「概念」が出てきたときは、朱線や色ペンで印をつける。時にはグルグルと楕円で囲ったりしている。
●「そうかぁ、これはこういうことだったのかぁ」などと大なり小なり発見した喜びのあまりに、休憩をとって珈琲を淹れたりお菓子を食べたりしたことが付随して記憶に残る。
●その概念が別の箇所で使われていると、また印をつける。あっ、ここでも使われているぞ、という記憶と印とが残る。
●ときには「概念」が表しているだろうということを「絵」=図にしてみる。単純に矢印を前後左右や拡大・変化させたり、関係やつながりを○と○で配置させたり、いろいろやってみる。そういう試みが記憶として残る。
 
 こんな周辺的なことが何の関係があるかと思われるかもしれませんが、私はけっこう大事なことだと考えています。こういう周辺的なことが裾野として広がっているときは元気になれているときで、まがりなりにも筆は進みます。はんたいに、こういうことがやせ細っているとたいへん苦労する気がします。(小木曽眞司・こぎそしんじ)