世界に向き合う人間の原型 
 
 『自閉症の僕はいつも、視線に踊らされています。人に見られることが恐怖なのです。人は、刺すような視線で僕を見るからです。障害を抱えているために、目に見える言動が、みんなと違うせいでしょう。まるで原始人のようだと、自分でも思っています。』(東田直樹「跳びはねる思考」イースト・プレス刊)
 
 そして、東田さんは、上の文のすぐ後にこう書いています。
 『理性で感情をコントロールし、会話によって思いを伝え合う現代社会は、僕にとって異次元に迷い込んだかのような世界です。』 
 
 「人」からの視線というのは、「現代社会」からの視線だということを示しています。東田さんは、自分を「まるで原始人のようだ」と低めの目線で見積もりながら、現代社会は異次元的な迷路のような世界だというのです。
 
 これを、今回は「自閉症だった私」などの著作があるドナ・ウィリアムズの発言を補助線にして考えてみます。
 
 ドナは、どんな対象物にも、色、手触り、味、匂い、音などの視覚・触覚・味覚・嗅覚・聴覚などに訴えるものがあるのに大多数の人は、その用途・分類・名前に囚われて対象物を「了解」し、感覚を素通りしてしまうと言います。
 
 ドナの発言を下敷きにして、東田さんの「人の視線が怖い」をとらえ直してみましょう。道を歩くときも、風を感じるときも、何かモノに出会うときも、東田さんはそれらの色、手触り、味、匂い、音などを「素通りしないで」感じている。そのとき「人」は「刺すような視線で僕を見る」。・・・・・
 
「なに、やってんだ?」「おまえは、なんなんだ?」ということでしょう。役にも立たないことを! 意味もないことを! どうでもいいことを! がらくたを相手に! 時間をつぶして! ・・・・・
 
 私たちの居る世界は、森羅万象、奥の深い、あるがままの姿の世界と、そこから人工的に抽出して世界の「しくみ」を分類・整理し、さらに科学・技術で「しかけ」を組み立て、役立てるために流通し、「落ち」を極力少なくしてコミュニケーションする人間社会とがあります。
 
 前者を「あるがままの世界」、後者を「しくみ・しかけ」を重視する人間社会とすると、東田さんが感じる「視線が怖い」話は、その出所と感じ方が内側から想像できるようになってくると思いますが、どうでしょうか。
 
 私は、「あるがままの世界」をかんたんに素通りしない人間の原型がここに見えるような気がします。そのために、「こだわり」も存在し、人間社会の約束が見えづらくてパニックを引き起こすこともあろうかと思います。


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