「する」からの外れ 
 
 『自閉症の僕はいつも、視線に踊らされています。人に見られることが恐怖なのです。人は、刺すような視線で僕を見るからです。障害を抱えているために、目に見える言動が、みんなと違うせいでしょう。まるで原始人のようだと、自分でも思っています。』(東田直樹「跳びはねる思考」イースト・プレス刊)
 
 「いつも、視線に踊らされている」という東田さん。視線は、どこから感じるかというと「人」からです。人の周りには「人」がいる、いろんな「人」がいる。人は独りで生きているのでなく、人の社会で人に囲まれて生きているので、どうしても「人」の視線を受けたり感じたりすることは多くなります。
 
 そこで問題は、なぜ「人」の視線が怖いのか? ということです。
 もし、「人」の視線が怖いというのが、東田さんに限らず発達障害・自閉スペクトラム症の多くの方々にもあるのだとしたら、この視線の問題は発達障害にとってかなり普遍的なことになります。そして、おそらくそう(普遍的)だと思います。
 
 この問題に近づくために、ひとつの補助線を入れてみます。それは、不登校やひきこもりの当事者がある一定の時期に経験することです。
 
 たとえば、不登校やひきこもりをしはじめた多くの当事者が、昼夜逆転の生活をしはじめる傾向がみられます。理由はいろいろ考えられますし、この話をくわしく展開することもできますが、端的に言うと日常世界の「する」を中心としたあり方から遠ざかりたいということだと思います。
 
 不登校の子どもが、あるとき誰かと出会ったとして、およそこんな会話がされるでしょう。「君は、何年生なの?」・・・ひきこもりの青年にも同様で、「仕事は何してる?」・・・。学歴、仕事、所属、専攻・・・要するに一定の社会的所属を訊ねて一段落する、世間はまずそれを聞いて納得する、こういうことがあります。
 
 逆に言えば、平日の真っ昼間には子どもというものは学校にいる「はず」で、ひとりでそこらにいるのは「おかしい」のです。いい年をした青年だったら、ふつうは何か仕事に就いている「はず」で、そうでなければどこか「おかしい」というのが世間です。
 
 こういう視線が、不登校やひきこもりの当事者をさらに追い込んでいる・・・すると、「視線が怖い」のは当事者サイドだけの心性でなく、関係のなかでつくられるのではないでしょうか。(つづく)


★公開講座のお知らせです。
発達障害について理解し、どう接すればいいのかを学んでみませんか?
講師:高岡 健氏の専門的な立場から紐解く当事者の世界とは・・・
相談担当者はもちろん、ご興味のある方はぜひご参加ください。
◎詳しくはコチラ↓
SISオフィシャル:公開講座のご案内