黙ってしまうのも表現である
 
 私たちは、何気ない会話のなかでも時として沈黙してしまうことがあります。単純な名詞や、短い形容詞であってさえも、言葉にしたとたん、自分が言い表したかったことからして居心地が悪い思いをすることだってあります。まして、誰かに悩みを相談していて、相手から「それってどういうこと?」「その時、どんな気持ちだった?」などと問われて、「う~~~ん」と唸ったり、黙り込んでしまうことがあったりします。
 
 そういう時の、《沈黙》っていったい何なのでしょう。
 
 なかなかうまく言い表せない、ということが考えられます。だから、言うこと・話すことに抵抗感がある、ストップしてしまう、本人の内部で思い巡らしている、というようなことだろうと思います。
 
 それらは、《沈黙》を認めつつも、どこかで線が引かれ、「ちゃんとした言葉になっていない」というように、後ろに「ちゃんと」が控えていることが多々ありますけれども・・・。《自己表出》と《指示表出》との関係においては、結局、社会的に通用する《指示表出》になるかどうかが「決め手」とされることが多いのです。
 
 思想家・吉本隆明氏は、最晩年に「言葉とは何か」と問われて、「沈黙じゃないでしょうか」と答えて、仏教における「無言の行」を例として出しています。
 
『無言の行というのは、要するにしゃべらないことで内部を内面的な言葉でいっぱいにしてしまうことですね。(中略)妄想から空想、イメージがいろいろといっぺんにわいていますが、それを自分で外に発しないで整理してしまうというか、秩序付けてしまうという修行だと思います。』 (吉本隆明「老いの超え方」朝日新聞社・刊より)
 
 修行をするかどうかは別として、吉本氏の言は《沈黙》の積極性を押し出しています。
 
 人が生きていくときに、その人の・その時・その場のさまざまなものとの出会いやかかわりと、そこから生まれるなにがしかの《心的反応》を、たとえ無数に存在するかに見える言葉であっても十全に言い表すのは不可能だろうと思います。
 
 あらためて《沈黙》の積極的な意義を見つめてみたい、そう思います。言葉や会話が苦手だとされる発達障害者の、豊かな内面世界を理解する手がかりになるだろうと思います。