「権力線」の一人歩き 
 
 一年前の今日、7月26日、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者を次々と包丁で刺し、19人を殺害した事件が起きました。
 
 少し前に行われた慰霊祭の報道写真を見ると、祭壇に置かれた19人の犠牲者位牌には性別・年齢が書かれているだけで個人名は書かれていません。慰霊に訪れた人は、個人名のない位牌に向かって手を合わせるのです。
 
 植松被告の障害者殺傷行為と、重度障害者は安楽死の対象にすべきだという主張に共感するネット上の書き込みが少なからず継続されていることからの「配慮」だということです。
 
 植松被告によれば、意思疎通がとれないような重度・重複障害者は「幸せを奪い、不幸をばらまく存在」だということです。では、意思疎通がとれるとは、「正確に自己紹介をすることができる」ことだと植松被告は定義しているようです。(植松被告よりの中日新聞社への手紙から。7月23日、中日新聞より)
 
 もたもたし、もごもごと口を動かしながら一向に要領を得ない話し方・・・我慢して聞いているのに、時間ばかり浪費する。そればかりか、こちらからの問いかけをそもそも受け取れているかどうかも定かでない。時間が浪費する、介助・介護の費用も、ぬくぬくと入所できる施設建設のための費用も、働くこともせずに浪費するような人間は必要ない。こういう論理であろうと思います。
 
 植松被告が、その人生の青年期までに、このような論理を身につけたことにゾッとします。また、彼の論理を後押しするネット上の書き込みが存在する事態にゾッとします。
 
 植松被告は、《意思疎通がとれる/とれない》で『線引き』をします。それは、彼がそうされ(線引きをされ)、そこ(線引き)から脱け出せない故に権力的に断罪され、それ(断罪)が何度も繰り返され、精神に刻印されたのに違いない。そう、思います。植松被告の精神と論理をつくった誰かが、彼の近くにいるのだろうと思います。
 
 人を『線引き』することが、「権力線」を生み、「線」を超えられないならば権力をふるっても構わないんだという論理を生み出す・・・そのことを、芹沢俊介氏の一連の発言から学びました。(芹沢俊介「現代子ども暴力論」春秋社。「子どもたちの生と死」筑摩書房。ほか)
 
  「権力線」は、放置すれば一人歩きし、増殖する、これが相模原事件の教訓だと思います。