真に見守ること 
 
 千葉の女児殺害・遺体遺棄事件について、再び。
 
 格子戸などの「格子」が、外側と内側を隔てていて安心していたのに、まるでその「格子」そのものが牙をむいて襲いかかってきたかのごときです。見守り活動を利用して「格子」に成りすますなど、なにをかいわんや、言語道断でしょう。
 
 その上で、さかのぼって考えてみる必要があるのではないか。なぜ、「格子」が必要ということになってきたのか。なぜ、子どもが狙われるのか。
 
 そのようにさかのぼっていくと、2001年の「池田小学校児童殺傷事件」の衝撃に突き当たるのではないか、と思います。あろうことか、何のかかわりもなく罪もない子どもの命を奪うような犯罪が起きた。だから、当然のごとくに「子どもを守る」動きがつくられた。それはいいのだけれども、「子どもを狙う」ということについての根本的な問題について、私たちはまだ考えに考え抜いていないのではないか。そのスキ間が、またもや衝かれたのではないか。そのような問題意識を持っています。
 
 2001年の「池田小学校児童殺傷事件」実行犯の宅間守は、幼少期から徹底して父親からの暴力の対象でした。成人しても事ある度に否定され、出生にさかのぼって堕胎しなかった「失敗」を告げられていました。兄は、すでに自死の道を選んでいました。 
 
 宅間守は、法廷で制止されながら不規則発言をしています。それを煮詰めると、「裕福な家庭の子どもを道連れにして自死する」ということです。「道連れ」とは、「道具にする」意味に聞こえます。宅間は、父親からの暴力的な「道具」とされ、自身も最後までそのあり方から逃れることができなかったと思います。
 
 今回の千葉の場合は、「欲望」の「道具」だったのか、まだ確定的なことは言えないのですが・・・。
 
 子どもを「道具」にするのでなく、真の意味で「見守る」とは? という問題が突きつけられています。