見るのが快感・・・ 
 
 『僕は、人よりも光や砂や水にひかれました。』
 
 東田直樹さんの本「風になる~自閉症の僕が生きていく風景」(ビッグイシュー日本・刊)を続け読みます。
 
 『それら(光や砂や水)を見つめ、その感触を楽しむことが、生きる喜びだったのです。自然と一体化した世界は、僕に永遠の幸福を約束してくれるかのようでした。その頃の僕は、自分が人だということもわかっていなかったと思います。僕の目には、人も風景の一部みたいな感じだったのではないでしょうか。』
 
 『たとえば、ミニカーを見ても、僕は自動車として動かしたり、友達として遊んだりすることはなかったです。それが車だとは思わなかったこともあります。・・・僕がミニカーを見てまずやることは、ミニカーをひっくり返しタイヤをくるくる回すことでした。・・・タイヤを回すことにあきると、今度はミニカーを並べます。・・・自分の考える通りに物が並んでいるのを見ると、とても満足しました。・・・並べることに役割やストーリーがなくても、何度もやりたくなるのです。』
 
 社会を構成している周りの「人」も、まるで「風景の一部みたいな感じ」だった。それから、人が乗用に使う車のミニチュアカーも「それ」として扱うのでなく、タイヤを回したり並べたりする・・・そういうことに浸っていたというのです。
 
 「やっぱり、どこか変わっている」し、「普通の子どもと感覚が違う」と思われるかも知れません。
 
 そこで、次のような考え方を対置してみます。
 
 東田さんは、自然や物に周波数が合うけれども、人間社会が取り決めた《しくみ》やモノの《しかけ》にはあまり周波数が合わないのだと思います。人間社会は、《しくみ・しかけ》をどんどん発展させていきますが、実はそれは人間の脳が精緻に張り巡らせたもので、自然や物はそれとはかかわりなく存在しています。
 
 《しかけ・しくみ》に対して、それはあるがままの《すがた・かたち》でしょう。
 
 ミニカーを、車のミニチュアカーとして扱うのでなく、タイヤが回転することに没頭する、それから並べることに喜びを感じる・・・こんな風に、人間社会の取り決めた「意味世界」になぞ見向きもせず、自然や物の表す《すがた・かたち》と共に在るのだと思います。それで、何かを誇示したり、回避したり、認められようとしているのでなく、ただそうするだけで、意味を持たせようとしない。こんな風に、価値を示していると思います。