「責任能力」問題の先にあるもの
 
  名古屋大学元女子学生の事件を巡って、「責任能力」について継続的に考えています。
とりわけ、児童精神科医・高岡健氏の発言に突き当たって、うんと考え込んでしまいました。(高岡氏は、同事件をめぐる夕方のテレビ報道番組にも出演されていました。)
 
 『合理的な行動が直接、責任能力があることを示すわけではない。』
 
 ・・・ということになると、犯行行動に見られた「合理性」は、被告を犯行に突き動かした何かの下僕(しもべ)もしくは補助的な働きに過ぎない、ということになります。
 
  では、殺人を犯してまで被告を突き動かした「何か」というのは、いったい何だったのか・・・・・そういうことになると思います。
 
 この事件の経過全体をつぶさに追っているわけではないので、無責任なことは言えないのですが、被告の犯行動機には「幾何学的な興味?」であるような印象を持ちます。
 
  「幾何学的」とは、物の形、大きさ、位置などの空間の性質に関する本質を探究するものです。かんたんに言うと、その物の見え方に違いがあっても、ほんとうはどうなのか、不変として変わらないものがあるのではないか、それを探究するものです。
 
 たとえば、「三角形の3つの内角の和は180度である」という公式があり、どんなに平べったい三角形でも、どんなに尖って傾いた三角形でも貫かれます。そして、探究する人間の一切の感情や気持ちに関係なく、貫かれます。
 
 ある意味で、「幾何学的」というのは「合理性」の極地です。
 
 能力もなく、元女子学生に関する情報をたくさん持ち合わせているわけでもない私の感覚的な意見ですが、彼女は彼女の固有の感情や気持ちを無視されるように遇されてきたのではないか。こんな感覚を持ちます。
 
 そうしますと、この事件が投げかけているのは、「責任能力あり」などとして判決が確定して終了でなく、もっと分け入って考えなければならない、元女子学生の「個」の問題でなく「関係」の問題であるような気がします。