言葉を使う時のTPOという問題 3 
 
 コトバに表わされる内容や意味には、「扇の形」のような幅があることがある。しかし、幅がありすぎると困るので、コトバは、その時その場に相応しくて誰にも流通しやすいように使われる。
 
 このような言葉の問題について、哲学のメガネをかけて、継続して考えています。
 
 高岡健氏の著作(「自閉症論の原点」雲母書房)からの孫引きですが、精神科医レオ・カナーが記した自閉症児ジェイ・Sについての興味深い事例があります。
 
 それによると、ジェイは、両親が「それ本当なの?」と尋ねると、「ぼくは、Blumだよ!」と答える。両親は訳が分からずに困惑するが、後で分かったことがあった。ある家具会社の宣伝広告に大きな字で「Blumは真実を語る」とあり、ジェイが指差していたことがあったという。 
 
  この話からわかるいくつかのことがあり、またそれぞれを立ち止まって考えてみたいと思います。
 
●ジェイ少年は、「本当?」と問われて、「本当だよ」と答える代わりに比喩として「Blumだよ」と答えています。比喩は、直喩、隠喩などありますが、これは隠喩でしょう。
 
●本人は、「本当だよ」のつもりで「Blumだよ」と言うのですが、ほとんどの人にはおいそれとは流通しないでしょう。なぜなら、「Blumは真実を語る」という宣伝広告を比喩として使ったり聞いたりすることはまず無いだろうからです。
 
●前回までの喩えである、言葉の「扇の形」(言葉には幅がある、の喩え)に当てはめてみれば、扇の中心でないことはおろか扇の端っこの、そのまた端っこでしょう。
 
 さて・・・、そこで立ち止まって考えてみたい問題があります。それは・・・、
 
★ジェイが言った「Blumだよ」のような言葉は、それでも言葉の「扇の形」のなかに許容するのかどうか。それなら、言葉というものはどういうものなのか。そして、このような言葉の「扇の形」の端っこのような言葉のやり取りをしがちな自閉症スペクトラムの人たちにどのように向き合うのか・・・・・。
 
★ジェイは、宣伝広告を見た個人的経験から「Blumだよ」という比喩を使ったと思われますが、両親にそれを伝える時にはそのまま無邪気に無防備に伝えていると思います。つまり、自分と両親が渾然一体となっています。
 
★逆に、おとな同士の会話で、会話の基盤が成立しているのか定かでないのにどんどん話を進めてしまうことが多々あります。どうみても会話が一方的なことがある。それと、本質的に変わりがないのではないでしょうか。ただ、それは、「無邪気・無防備」からはずいぶんと遠い話ではあるのですけれど・・・。
 
★(後からではあっても)ジェイが言っていたことは分かったよ! 誰か、こういう人が一人でもいればよいのではないでしょうか。世間的には「扇の形」の端っこだとしても、誰か身近な人が受けとめるなら、その会話は「扇のど真ん中」だと思います。