言葉と、言葉の奥に潜むものとの関係 
 
 
 前回の芥川賞を受賞した「コンビニ人間」(村田紗耶香・著)に、主人公が小学生だったときのエピソードが書かれています。男子がとっくみあいのケンカをしていて、「誰か止めて!」と悲鳴があがった。「私」は、そばにあったスコップを手にとって男子の頭をたたいた。男子は頭を抱えて転び、周囲は絶叫に包まれ、大騒ぎ。男子は、ケンカどころでなくなる。
 
 「皆が止めろというから、一番早そうな方法を使った」と「私」は主張するが、先生やおとなは駄目だと怒る。職員会議が開かれ、母親が呼び出される。
 
 また、別の場面で、教室で女教師がヒステリーを起こして教卓を出席簿で激しく叩きながらわめき散らし、皆が泣き始めたときのこと。「やめて、先生!」 皆が止めてと言っても収まらないので、黙ってもらおうと思って先生に走り寄ってスカートとパンツを勢いよく下ろした。女教師は泣き出して、静かになった。
 
 隣の教室から先生が走ってきて、事情を聞かれ、「大人の女の人が服を脱がされて静かになっているのをテレビで見たことがある」と説明する。やっぱり、職員会議が開かれ、再び母親が呼び出される。
 
 「私」は、また何か悪いことをしてしまったらしいが、どうしてなのかはわからない。
 
 「私」は、必要なこと以外の言葉はしゃべらず、できる限り自分から行動しないようにする。おとなは、ほっとしたようだった・・・というものです。
 
 こういう「私」が、30代半ばを過ぎてコンビニ店員として生きていくなかで、さまざまなドラマが起きるという作品なのです。
 
 家族は、「どうすれば『治る』のかしらね」と言い、「私」も『治らなくては』と思いながら、大人になっていく・・・。
 
 2つのエピソードは、「言葉と、言葉の奥に潜むものとの関係」だと言えそうです。
 
 「誰か止めて!」という言葉。「やめて、先生!」という言葉。それに対して「私」が持ち出してきたスコップ、そしてテレビから応用した服脱がし。これらに、悪意や敵愾心が無いことはわかっています。
 
 けれども、「治す」という問題なのかどうか。どのように考えたら良いのでしょうか。