アヴェロンの野生児が示すもの
 

 既報のように2月26日に発達障害について児童精神科医・高岡健氏の講演会があります。
 
 高岡氏には、発達障害にかかわる多数の著作があります。読んでいくと、発達障害者への援助のあり方に限らず、そもそも発達障害とは人間という生き物にとってどういう側面なのかという問いかけが焙り出てくるようなのです。
 
 力量が足らないのでうまく伝えられないですが、高岡健著「自閉症論の原点」(雲母書房)という専門書のなかに「アヴェロンの野生児」の話が出てきます。
 
 「アヴェロンの野生児」の話は、1799年に、11~12歳と思われる少年(のちに、ヴィクトールと名付けられた)が、フランス・アヴェロンの森にて猟師によって捕らえられ、パリの医師・イタールが教育訓練を行った研究記録に残されている話です。
 
 200年以上も前には「自閉症」という考え方そのものがなかったのですが、近年になってからその少年は今でいう自閉症であったと考えられ、イタールの研究記録は再評価されています。
 
  医師・イタールによる研究には多方面のものがありますが、その一つに物と名前を覚えさせる訓練がありました。例えば、実物のナイフやペンを示し、名前と結びつけて覚えさせる訓練です。
 
 それは、たいがいは成功したのですが、訓練で馴れた実物を隠して異なった別のナイフやペンを持って来させようとすると、うまくいかなかったということです。
 
 どういうことか、です。たとえば、ヴィクトール少年にとって、訓練で馴れたナイフが「先の尖った折り畳み式のナイフ」であったなら、先が丸くて折り畳めないものはナイフでなかった、ということです。
 
 つまり、ふつう、私たちが形状の差はあれ、刃と柄が付いた小型の道具をナイフとするのに、ヴィクトール少年は馴れたナイフの形状への知覚から離れようとせず、ナイフの概念を抽出して異なる形状のものに応用しない、ということです。
 
 はぁ、そうなのかぁ、と思うところがあります。
 
 それならば、私たちは、「ナイフ」というものに対して、あらゆる形状を貫いて「ナイフ」と言う言葉をどのように獲得したのだろうか。それに対してヴィクトール少年は、なぜ特定のナイフへの知覚から離れようとしないのか、とあらためて考え込んでしまいます。
 
  冒頭に、「発達障害とは人間という生き物にとってどういう側面なのかという問いかけが焙り出てくる」というのが、このことです。
 
 ナイフとの初めての「出会い」を横に置いて(あるいは切り捨てて)、「ナイフ」が意味する概念を抽出して、社会的通貨のようにして言葉を私たちは使っています。時代が進と共に、使わなければならない言葉が氾濫しています。ヴィクトール少年は、「出会い」からあまり離れようとしなかった・・・そんな気がします。