東田直樹さんとの「命」をめぐる対話 
 
 自閉症の作家・東田直樹さんを取り上げたテレビ番組は、2年前の2014年に放送され、大きな反響を呼びました。その番組は、芸術祭ドキュメンタリー部門大賞を受賞しました。
 
 自閉症の子どもを持つ親の多くが、自分の子どもが何を考えているのかわからず、途方に暮れていたのが、東田さんの言葉や様子を見て、感じて、希望を持てたと言います。
 
 今回、続編のこの番組のはじめに、ガン闘病をするディレクター・丸山さんと東田さんが「命」をめぐって対話する場面がありました。
 
 『僕は、人の一生はつなげるものでなくて、一人ずつが完結するものだと思っています。』
こう、東田さんが語る場面がありました。
 
 ガンを意識しながら、「自分の命をつないでくれた母やおばあちゃんよりも先に死んでしまうかも知れない。命をつないでいかなくちゃ、と思うけれど」と丸山さんが話しはじめたことをきっかけにしてのことです。
 
 はじめて東田さんの姿を(映像を通して)見た人は、とても戸惑う場面ではないでしょうか。
 東田さんは、手元に「文字盤」を置いて指差しながら言葉を繰り出すのだが、あれは何だろうか。言語を確定するきっかけにも思えるし、東田さんの発語は頭の上に抜けるような奇異な感じがするし、それでいて「完結」という凝縮した概念が出てくるし・・・。
 
 実は、この戸惑い感の裏には、私たちが『わかっている』ものとしてやり取りする言葉の会話がそもそもどのように成り立っているのか、それに言語とは何で、どう発生し使われているのか、また自閉症者の多くに言葉の会話をしない人がいるのはどういうことなのか、そういうことが『(わかっているようで)わかっていない』からではないか。それが、逆に突きつけられた感じがするのではないか。
 
 この世に生まれてきて間もない時期(幼い頃)の自閉症者にとって、周りの人が使う言葉が何を指し、意味しているのか、よくつかめないうちにどんどんやり取りされ、そのやり取りを積み重ねるスピードがとても速いのではないか。けれども、何らかの手だてで獲得が出来、受けとめる相手があれば違ってくるのではないか。「完結」の例のように・・・。
 
 これは、一つの仮説です。この仮説はまったく未分化であり、今後は修正や補強を加えていきたいと思っています。
 
 東田さんが、翌日に丸山さんに次のような手紙を送ったということです。
僕は、命というものは大切だからこそ、つなぐものではなく完結するものだと考えている。(中略)人生を生ききる。残された人は、その姿を見て自分の人生を生き続ける』・・・と。