発達障害をめぐる「二つの世界の隔たり」
 
 
 シンガーソングライター・堀川ひとみさんが言われている「私の世界」と「私の周りの世界」~「二つの世界の隔たり」というとらえ方が、発達障害を考える際にとてもわかりやすいと思い、継続して取り上げています。
 
 堀川さんは、自分が小さいころから「隔たり」を感じていたが、それをどう言い表したらよいかわからなかったと言います。
 
 そこで、また前回と同様に東田直樹さんの経験を補助線として入れて、考えてみます。幼稚園時代のことを振り返って、東田さんが次のように文章化しているからです。
 
 『僕は孤独でした。人は、いつも突然現れて何かをしろと命令するし、僕の気持ちをわかってくれません。友達は毎日がすごく楽しそうで、テレビの話や戦いごっこをしています。とにかく、疲れ果てていました。一人でいることだけが、自分を守るために小さな僕にできることでした。一人でいれさえすれば、安心できたのです。そんな僕の心をなぐさめてくれたのが、自然です。』
  (東田直樹「風になる~自閉症の僕が生きていく風景」ビッグイシュー日本・刊)
 
 「人は、いつも突然現れて何かをしろと命令する」と受けとっていた東田さんの感覚はいったいどういうものでしょう。このことは、「私の世界」と「私の周りの世界」の隔たりとしてじっくり考えてみる必要がありそうです。
 
 「突然現れて」というのは、「前を向いて」という指示も東田さんにとってはそうだったのでしょう。「前を向いて」は当人の「自発」から要請されているわけでなく、それから「前」とはステージ方向や先生が立っている方向などの集団社会で暗黙に取り決められているsignifianntシニフィァン=記号だからです。それは、各自がわきまえて「読む」ことが前提となっています。幼稚園や保育園の「お遊戯の時間」や「園長先生のお話を聞く時間」などのカリキュラムに基づいた時間も同様に、「自発」でなくても訪れて、立ってはいけない、動いてはいけない、○○してはダメ、など為すべき自分の行動を「読む」ことが前提として求められています。
 
  東田さんや堀川さんの、ごく自然な、あるがままの「私の世界」に「私の周りの世界」の人が突然現れて「命令する」と受けとられ、隔たりを感じてしまうのは、こういうことではないでしょうか。社会や集団生活のなかで、暗黙に取り決められていて、それをわきまえて「読む」前提がたくさんあるからだと思います。