つかい勝手の良い自分に・・・~鴨長明「方丈記」を読む 
 
 
 「私の方丈記」(作家・三木卓による現代語訳付。河出文庫)を、さらに読んでみます。
 
  次のような箇所に、ハッとさせられました。
 『自分を従者にするしかた。それは、必要ならただちに自分の身をつかう、ということだ。これはくたびれはするが、人をつかったり、人に気配りをしたりするより気楽である。
 いま、わたしはこの肉体をわけて、二つの仕事をしている。手を従者に、足を乗り物にするのは、自分の望みどおりのことだ。からだは、心が苦しいと感じるときにはわかるわけだから、そのときは休めばいいし、調子がいいときにはつかえばいい。』

 (「従者」は、鴨長明の原文では「奴婢」)
 
 三木氏は、鴨長明の原文をわかりやすく意訳しているのですが、さらに自己流にて言い換えます。
 
 自分で「自分を従者にする」とは、自分で『自分をつかい勝手の良い自分にしておく』ということかと思います。そのためには、自分が「自分の望みどおり」の自分であるかどうかがわかるための眼を持っていることが大事です。まかり間違っても、自分が誰かの従者になって動き、忖度し、地道を上げることではないし、そう余儀なくされる場面があっても元に戻るバイパスを見失わないことかと思います。
 
 からだは正直であって、心が苦しいと感じるときには音を上げるし、はんたいに調子がいいというときには「我が・まま」に思うように動けばいい、ということでしょう。
 
 「うつ」のような症状のときに思い切った休息が必要だというのは、バッテリーが少なくなった「我が・まま」エンジンに負荷をかけず休ませることだと思います。
 
  自分が誰かの従者になるのでなく、思いついたときに・思いついたことを・思いのかぎりに、『自分で自分を従者にする仕方』を見つけていくことが大事だろうと思います。