古代の日本語は哲学だった 
 
 劇作家井上ひさし氏は、戯曲のなかでさまざまなギャグを散りばめていたりしました。たとえば・・・、いいかい、このイカ、いかがなんて、いいかげんなこと言う日にゃぁ、いかんせん、いかにも、こんな話、もうスルメぇ・・・(曖昧な記憶ですみません)
 
 さて、オヤジギャグでなくマジメな話です。
 「イキ」という音を持つ言葉には、「」「生き」「行き」「」などあります。私たちは生命を持って呼吸し「息」をしている、それが「生き」ていることで、身体や足を使って「行き来」している。その「行き来」のそれぞれの範囲を「域」として表す。
 
 「息」「生き」「行き」「域」などの言葉は、現在はそれぞれの使い方に別れているのですが、古代人はそれらのつながりの根をつかんでいました。だから、言葉とは世界をつかむ哲学だったと思います。
 
 さて、京都丹後の名所「天橋立」の説明看板には、次のような神話が書かれています。天橋立は、天上から降りてきた「柱」が海上にて「橋」になったのだと。
 
 「」「」、そして「」「」「」「」、それから「走る」「馳せる」には、「ハシ」の音が共有されています。この「ハシ」には、2点間を短縮して切り結ぶ意味が込められています。「橋」は地理的彼岸と此岸、「箸」は食べ物と口を短縮する道具、「嘴」は鳥類等がエサをついばむ器官、「柱」は接尾語「ら」がついて階上と階下を接合、「梯」はまさしく高低を短縮化する道具、「走る」「馳せる」は2点間を短縮する動詞という具合です。
 
 私たちをとりまく世界は大きな連関を持ち、モノもヒトも皆、つながりのなかにあります。そのつながりには、理(ことわり)があり、根があります。古代人が見ていた世界への哲学観に、ときどき触れてみたいものだと思います。