ドナ・ウィリアムズの発言 ~共振する世界~ 
 
 
 「自閉症だったわたしへ」などの一連の自己省察的な著作を通して、私たちが見失ってきたひとつの文化を発信しつづけるドナ・ウィリアムズ。そのドナ・ウィリアムズが、大多数の健常者と少数の自閉症者の違いについて、次のような発言をしています。(「自閉症という体験」誠信書房、川手鷹彦訳、2009年刊)
 
 大多数の人びとは、対象物を知覚するときに、それらのざらざらした様子、つやつや、ピカピカ、スベスベした具合や色あざやかだったり、くすんでいる状態を見過ごしています。
 
 それらの滑らかさや、木目の粗さ、ひんやりとした感じや、織物の織りの手触りを体験し損なっています。
 
 それらが、ちりんちりんと鳴り、ドタンバタンし、叩けばトントン響く音を聞き逃しています。
 
 それらの甘さや香り高さ、また味や匂いを味わわず嗅ぎ分けずに終わらせます
 
 それらのしなやかさや固さ、それらにかぶりつき、またぶつかったときのはね返す力を感じ取らずに済ますのです。
 
 
 彼らは、ありのままの感覚をさっさと通り過ぎて名前にこだわるようになり、それがガラスか、木か、金属か、紙かと、それらを越えてその意義へと至ろうとします。
 
 それが料理の材料なのか、装飾品なのか、隣人の持ち物なのか、手入れをしておくべきものなのか等々、ということです。
 
 ・・・・・ドナ・ウィリアムズがここに書いているのは、五感を通して世界と共振し、その世界と共にあることにのめり込み、名前を覚えたり、社会的な意義を把握したり、意味と解釈をつかんだりすることに疎かったり、後回しにしてしまう自閉症者の特質です。
 
 それは、あくまで「特質」であって、「障害」ではないと思います。そして、この「特質」は濃淡の差はあれども、人間の誰もが持っているものだと思います。
 
 ドナ・ウィリアムズの発言を通して、私たちは発達障害や自閉症について考えるだけでなく、人間ってどういう存在なのか考えることができると思います。
 
 次回から、このことを連続して考えてみたいと思います。