憎悪の広がりと「居場所」の関係
 
 
 10年か、20年か、以前ならどこか片隅で語られていた言説が大手を振っているようです。在日は特権に守られている、生活保護受給者は働かずに得している、移民が仕事を奪っている・・・、と。それらは、排除への感情を呼び覚まし、憎悪をふくらませているようです。
 
 憎悪が、ネット上で広がり、活字媒体を通して繰り返され、路上デモにて拡声器で叫ばれるような時代です。日本だけでなく、ヨーロッパでも、アメリカ大統領選でも見られ、広がっています。うかうかしているうちに、おろおろと手をこまねいているうちに。
 
 在日コリアン排斥のへイト・スピーチデモに参加する青年のなかに、過激なスピーチをして喝采を浴びる、あるいは過激さを競い合う空気があると聞いたことがあります。その話が、あながち間違いではないだろうなという時代状況があります。
 
 へイト・スピーチのなかで「居場所」を見つける、逆を言えばどこにも「居場所」が見つからないという絶望が憎悪を加速させるのだと思います。
 
 相模原事件の植松容疑者は、その後の取り調べのなかでも「障害者お荷物論」を固持しているようです。彼の究極の「居場所」は、果たして「そこ(障害者殺傷)」だったのか、なぜ「そこ」でなければならなかったのか、弱き者に刃を向ける憎悪はかつて彼自身がこうむった「居場所」喪失に根を持つのではないか・・・そんなことを思います。