ただ頷く存在として他者が描かれるとき
 
 
 ある会にて、自分が担当して話す機会がありました。入念に準備をして、佳境にはいりかけたとき、胸の奥でぞわぞわしたものを感じました。「また、やらかした!」と思いました。準備したものがガチガチで、力任せで、聞き手の人たちの頭上をグルグル回っているようでした。司会者に休憩をお願いして、仕切直しをしました。
 
 「お説、ごもっとも」状態だったと思います。少しも心に響かない、聞き手は「ごもっとも」としながら引いているわけです。
 
 失敗談を教訓にしながら紐解いていきますと、植松容疑者が犯行前にとっていた言動にコレに似たものがあったと思います。
 「障害者なんて、社会のお荷物なんだ」と言う植松容疑者に対して、周囲は引いたでしょう。しかし、彼はそこで停止もUターンもせずに、「お説」を重ねていったのではないかと思います。そのとき、聞き手は彼の頭の中でウンウン、ナールホドと肯く存在としてだけ描かれていたのではないかと思います。
 
 彼の「お説」を誰かが難じれば彼の口調は熱を帯び、やがてドン引きする空気に幕が降りて誰も居なくなると、「誰もわかっちゃいないんだ」とつぶやく・・・。
 
 もし、そうだとすれば、「障害者なんて・・・」という目線と、「お説」を聞く「あいつらなんか・・・」という目線と、2つの目線の高さはとても似たものになると思います。