牧口先生七回忌に
思いかえせば、三十年前、わたくしが二十一歳、先生が五十一歳の御年のとき、先生にお目にかかりました。それいらい、先生とは、師とも、親とも、主従ともつかぬ仲でした。四回の先生のご難にお供いたしました。
第一回は、西町小学校より左遷のとき、第二回は、三笠小学校より左遷せられたとき、第三回は、芝の白金小学校より、校長として退職を余儀なくせられたときです。第四回目は、昭和十八年、軍部の圧力により、法のため、巣鴨拘置所にお供したときであります。
それは、当時、軍部に、先生は、日本を救うことは天照大神を拝むことではなく、ただ、文底秘沈の大法、事の一念三千の南無妙法蓮華経を唱えることであるとの折伏が因をなして、同志十九名が拘置所につながれたのです。
思いかえすれば、先生の価値学説ご研究のとき、先生は、
『戸田君、小学校長として教育学説を発表した人は、いまだ一人もいない。わたくしは、白金小学校長を、退職させられるのを、自分のために困るのではない。小学校長としての現職のまま、この教育学説を、今後の学校長に残してやりたいのだ』と申されました。
忘れもいたしません。夜の十二時まで、二人で火鉢をかこんで、わたくしの家で、こんこんと、学説の発表について語りあいました。
『よし、先生、やりましょう』
と申しあげると、先生は、
『戸田君、金がかかるよ』
と申されました。
わたくしは、『わたくしには、たくさんはありませんけれども、一万九千円のものは、ぜんぶ投げ出しましょう』
と申しあげ、また、
『先生の教育学は、なにが目的ですか』
といいますと、先生は、おもむろに、
『価値を創造することだ』
と申されました。
『では先生、創価教育、ときめましょう』
というぐあいで、名前も、一分間できまったのです。
以来、いくたの変遷をして、印刷にとりかかりましたが、思うようにできず、先生も、ひじょうにお苦しみになりました。そこで、わたくしが、
『先生、わたくしが、やりましょう』
と申しましたが、先生は、わたくしに文筆の能がないのを憂えて、わたくしに苦労をかけまいとして、こばまれましたので、わたくしは、
『先生、戸田が読んでわからないものを出版して、先生は、だれのために出版するのです。先生は、世界の大学者に読ませるのですか。戸田が読んでわかるものなら、わたくしが書けます』
といったことをおぼえております。
私見:戸田先生の文庫本の人間革命にはこの部分がありません。ここに、ちゃんと書かれているのに。戸田先生のお書きになった人間革命を勝手に書き換えている。こういうのが創価学会に多くある。これもそうである。都合が悪かったからか?
戸田城聖先生語録とあるが、戸田先生語る日蓮正宗(趣旨も)と書くべき所を創価学会と書き換えている。仏敵である。学会員を洗脳したいのか? 創価学会本部幹部か?
https://ameblo.jp/kingdog136/theme-10076647577.html
他にも「戸田先生が言った」と本部幹部会で言っているものにも、嘘がある。仏法者が言うことではない!
ここに、池田大作(先生)が第六天の魔王に負けた姿が明確に表れていることと、無智の学会員をコントロールしようという本部幹部等、また公明党の政策が、公明党の立党精神から大きく逸脱して、日本国民のためとは思えないものが推進されてきた。外国人参政権もそう、LGBTもそう、これもそう
等々、地獄の業を深めるバカ者だ。
先生の原稿は、ときおり、先生が思いつくままに、ホゴ紙のようなものにきれぎれに書いたものですから、二度も三度も、同じようなものも出てきます。重複するものは、ハサミで切ってのぞき、わたくしの八畳の部屋いっぱいに、一きれ一きれならべてみると、まったく一巻の本になるのです。わたくしは、先生の原稿を、第三巻まで整理いたしました。
その後、わたくしの手で、第五巻まで出版しまして、総会をかさねること数回、先生も、わたくしも、この会場が、この信仰者によってあふれることを、念願したのでした。
先生といえば戸田、戸田といえば先生といわれた仲で、昭和十八年の嵐にあったときも、もう、これで、先生とおあいできないと思っておりましたのに、警視庁の調べ室でいっしょになることができました。そのとき先生は、家から送られた品物のなかに、カミソリがはいっておりました。先生は、それをいかにもなつかしそうに、裏かえし、表かえしして見ていたのです。なにかの思い出でもあるかのように、ほんとうに恋しそうに、ながめているのです。
そのときに、同志稲葉君を蹴った刑事で、斎木とかいったと思う男が、ものすごい声をはりあげて、『牧口、おまえは、なにをもっているのか。ここをどこと思う。刃物をいじるとは、なにごとだ』と、どなりつけました。
先生は、無念そうに、その刃物をおかれました。身は国法にしたがえども、心は国法にしたがわず。先生は、創価学会の会長である。そのときの、わたくしのくやしさ。しかし、仏の金言むなしからず。わたくしが帰ったとき、斎木の一ばんいとしいと思っていた子どもが、頭から貯水池にはいって死んだのです。ちょうど三年以内です。そのときのわたくしの恐ろしさ、きょう、わたくしは、初めて、このことを申します。
それから、巣鴨にうつされるとき、先生と対面がゆるされました。わたくしは、
『先生、おからだをたいせつに』
と申しました。わかれて車に乗るとき、先生は、
『戸田君は、戸田君は』
と申されたそうです。
『わたくしは若い、先生はご老体である。先生が一日も早く、出られますように。わたくしは、いつまで、長くなってもよい。先生が、早く、早く出られますように』
と唱えた題目も、わたくしの力のたりなさか、翌年、先生は獄死されました。
『牧口は死んだよ』
と知らされたときの、わたくしの無念さ。一晩中、わたくしは獄舎に泣きあかしました。
先生のお葬式はと聞けば、学会から同志が、藤森富作、住吉巨年、森重紀美子、外一、二名。しかも、巣鴨から、小林君が先生の死体をせおって帰ったとか。そのときの情けなさ、くやしさ。世が世でありとも、恩師の死を知ってこぬのか、知らないでこないのか。
『よし! この身で、かならず、かならず、法要をしてみせるぞ!』
と誓ったときからのわたくしは、心の底から、生きがいを感じました。
先生の生命は永遠です。先生が、いま、どこにいられるか。猊下の御導師により、門弟らが、ともどもに唱える題目、先生は、この仏事につながれております。ここは寂光土です。先生の生命は、こつぜんとして、ここにあらわれております。
たとえ、かりにも、かりにも、先生が地獄の業火をあびていようとも、今日、かならず、かならず、仏果をえられたものと確信いたします。
きょう、みなさまとともに、先生の法要をなしえたことは、戸田一人の力ではありません。みなさまのお力と、心から感激いたしております。
昭和25年11月12日
牧口先生第七回忌法要
東京教育会館