「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」
お城めぐりの旅、竹田城その3の紹介です。
城名(別名) | 住所 | 関連する人物 |
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竹田城(虎臥城、安井ノ城) | 兵庫県朝来市和田山町竹田古城山 | 山名宗全、太田垣光景、桑山重晴、赤松広秀 |
入城料:500円
開城時間:3月1日~5月31日 午前8時~午後6時
※その他、各季節によって異なります。
駐車場が5か所あります。
駐車場から徒歩40~50分。
その他、タクシー、バスなどのアクセス方法あり。
100名城スタンプは【竹田城跡 料金収受棟】、【山城の郷】、【わだやま観光案内所】、【情報館 天空の城】の4ヶ所にあります。
太田垣氏7代の居城
竹田城は、永享3年(1431年)、山名宗全/持豊(やまなそうぜん/もちとよ)によって築かれました。
嘉吉3年(1443年)に城が完成すると、宗全の臣・太田垣光景(おおたがきみつかげ)が城主となりました。
以降、太田垣氏が7代に渡って居城とします。
天正8年(1580年)、羽柴秀吉の但馬攻めの際に竹田城は落ち、太田垣氏の繁栄も終わります。
城には、羽柴秀長の与力・桑山重晴(くわやましげはる)が入りました。
赤松広秀が野面積石垣の城とするも、関ヶ原の戦い後に自刃し、城は廃城
天正13年(1585年)、桑山重晴に代わり赤松広秀(あかまつひろひで)が入城します。
広秀は、城を堅固に改修し、今日残る野面積石垣の城となりました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、広秀は西軍に属します。
後に東軍の亀井玆矩(かめいこれのり)の鳥取城攻めに加わりますが、戦後、徳川家康の命により切腹となってしまいました。
城主のいない竹田城は廃城となってしまい、城としての役目を終えます。
規制の多い竹田城
竹田城、今はなんか面倒くさくなりましたね。
開城時間とか、立ち入り禁止区域とか、駐車場が遠いとか、おまけに入城料まであるし。
過去に数回訪れましたが、そんなの一切なかったんですよ。
駐車場もすぐ近くまで行かれました。
今では一番近い駐車場でも、そこから徒歩で40分もかかるらしいですね。
特に、開城時間には気を付けてくださいね。
季節によって異なりますし、1月~2月は立ち入りも出来ませんので、ご注意を。
※以下の写真は10年以上前のものです。
現在の城の風景と、違いがあるかもしれません。
その3では、南二の丸~南千畳、搦手、花屋敷までを紹介します。
以下の写真は下縄張り図を参照のこと。
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ラインスタンプ作りました。
喜怒哀楽を兜の前立てで表現した可愛い「武将の日々と日常なサムライスタンプ」、
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気に入ったら使ってくださいね。よろしくお願いします。
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