「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、島津忠良の墓の紹介です。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
島津忠良 | 竹田神社(日新寺跡) | 鹿児島県南さつま市加世田武田 |
発見難易度★★☆☆☆
駐車場があります。
島津家を統一に導いた中興の祖
島津忠良(しまづただよし)は分家の伊作家(いざくけ)善久(よしひさ)の子で、島津家15代当主・島津貴久の父です。
14代当主・島津勝久は島津薩州家(さっしゅうけ)の実久(さねひさ)に実権を握られ家督譲渡を迫られたため、 大永6年(1526年)、分家の伊作家(いざくけ)に助力を求めます。
伊作家・当主の忠良(ただよし)はこれに応じ、 子の貴久(たかひさ)を勝久の養子とし、自身は貴久の後見役となることで島津家を支えようとしました。
その際、勝久は自ら隠居し、養子の勝久に家督を譲っています。
しかし、それを良しとしない実久は貴久を急襲して追放。
貴久の養子縁組を解消させ、再び勝久を守護に据えました。
これにより島津家は実久・勝久と忠良・貴久親子の争いに発展します。
争いは10年以上も続きますが、天文8年(1539年)、忠良・貴久親子は実久の勢力の駆逐に成功。
貴久はようやく島津家当主に収まりました。
これにより、以降は分家の伊作家が島津宗家に成り代わり、強大な戦国大名・島津家となっていきます。
廃仏毀釈によって破壊された日新寺
明治の愚行・廃仏毀釈によって日本全国の寺院は破壊されます。
特に鹿児島藩は徹底的で、藩内の全ての寺院が破壊されました。
なので、鹿児島には古いお寺が一切ありません。
残念ですねー
忠良の菩提寺も例外ではなく、破壊されてしまったため、残っておらず、 現在は竹田神社が建っています。
なお、竹田神社の祭神は島津忠良です。
墓は日新寺の塔頭・常潤院跡にあります。
建物が壊されたから薩摩では仁王様は野ざらしのままです。
ともに殉死者です。
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