武将の墓 | 島津貴久の墓 - 福昌寺跡!争いを制し島津家を統一した15代当主! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、島津貴久の墓の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
島津貴久 福昌寺跡 鹿児島県鹿児島市池之上町24

 

誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(_ _ )m
スマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読み込みすると表示されるようです。

島津貴久の墓は福昌寺跡にあります。
発見難易度★★☆☆☆

くるまr駐車場はありませんが、少し離れた所になんとか停めました。


島津家をまとめ島津宗家に成り代わる

島津貴久(しまづたかひさ)は分家の伊作家(いざくけ)当主・忠良(ただよし)の子で、島津家15代当主です。

先代当主・島津勝久島津薩州家(さっしゅうけ)の実久(さねひさ)に実権を握られ家督譲渡を迫られたため、 大永6年(1526年)、分家の伊作家(いざくけ)に助力を求めます。
伊作家・当主の忠良(ただよし)はこれに応じ、 子の貴久(たかひさ)を勝久の養子とし、自身は貴久の後見役となることで島津家を支えようとしました。
その際、勝久は自ら隠居し、養子の勝久に家督を譲っています。
しかし、それを良しとしない実久は貴久を急襲して追放。
貴久の養子縁組を解消させ、再び勝久を守護に据えました。

これにより島津家は実久・勝久と忠良・貴久親子の争いに発展します。
争いは10年以上も続きますが、天文8年(1539年)に実久の勢力の駆逐に成功し、貴久はようやく島津家当主に収まりました。
これにより、以降は分家の伊作家が島津宗家に成り代わりました。

廃仏毀釈によって破壊された福昌寺
明治の愚行・廃仏毀釈によって日本全国の寺院は破壊されます。
特に鹿児島藩は徹底的で、藩内の全ての寺院が破壊されました。
なので、鹿児島には古いお寺が一切ありません。
残念ですねーショボーン
当主の菩提寺も例外ではなく、破壊されてしまったため、残っていません。

 

 

福昌寺跡入り口。

 

 

ずらりと並ぶ灯篭。

 

 

手水鉢。

 

 

島津貴久の墓。

 

 

島津貴久の墓アップ。

 

 

彫刻が細かいです。

 

 

ずらりと並ぶ島津当主の墓。

 

 

武将の墓めぐり TOPページへ戻る
日本全国の武将の墓を紹介しています。

 

 

アメブロ以外の方のご意見・ご質問等はこちらまで。
※返信までに時間を要する場合、お答えできかねる場合もございます。ご了承ください。

ライン宣伝07ラインスタンプ作りました。
喜怒哀楽を兜の前立てで表現した可愛い「武将の日々と日常なサムライスタンプ」
かわいい「たぬきサムライのスタンプ」などなど。
気に入ったら使ってくださいね。よろしくお願いします。
スタンプはこちらから。

ブログランキングへ参加中です。ご協力お願いしますm(_ _ )m
パクリはやめましょう!
このブログの記事や画像の無断使用、転載は絶対やめてくださいね。
ご使用等に関してはこちらまでお願いします。

この記事作るのにいろんな史料を調べたり、現地に行って写真撮ったり、時間・お金がたくさんかかってます!
ズルしちゃだめですよ。

© 2010-2024 siro-sengoku-bushou.