武将の墓 | 丹羽長重の霊廟 - 大隣寺跡!関ケ原で西軍に属すも、後に大名に復帰!| 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、丹羽長重の霊廟の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
丹羽長重 大隣寺跡 福島県白河市円明寺

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丹羽長重の霊廟は大隣寺跡にあります。
発見難易度★★★☆☆
山の中にあります。


くるまr駐車場があります。


秀吉に意地悪されて石高はわずか4万石に

丹羽長重は織田信長の重臣・丹羽長秀の嫡男です。
元亀2年(1571年)生れ。
初陣は年齢からして本能寺の変(1582年)の後と思われます。
天正13年(1585年)に父・長秀が死去。
越前など長秀の遺領123万石を引継ぎますが、同年、あらぬ疑いをかけられ、大幅な領地削減の上、父・長秀以来の重臣達が召し上げられてしまいます。
その後の天正15年(1587年)の豊臣秀吉の島津征伐のおりにも、嫌疑をかけられ、わずか4万石の小大名に成り下がってしまいました。
完全に秀吉の嫌がらせですねチュー
しかし、北条征伐の後に加増され、加賀・小松12万石を領しました。

関ケ原で西軍に属すも後に大名に復帰
秀吉の死後、関ヶ原の戦い(1600年)では西軍に属したため、戦後、改易となってしまいます。
しかし、慶長8年(1603年)に常陸古渡1万石を与えられて大名に復活。
その後、大阪の陣での活躍、徳川秀忠の御伽衆への抜擢などがあり、元和8年(1622年)、陸奥・棚倉5万石に加増となりました。
寛永4年(1627年)には陸奥・白河へ転封となり最終的に10万石余りを領しました。

寛永14年(1637年)、江戸桜田上屋敷で逝去。
遺骸は当地に運ばれて埋葬されました。

今は廃寺となってしまった大隣寺
寛永4 (1627)、長重が父・長秀の菩提を弔うために かつての円明寺跡に大隣寺を建立しました。
以降、代々 丹羽家の菩提寺となるはずでしたが、寛永20年(1643年)、子の光重の代に丹羽家は陸奥・二本松に転封となります。
それにともない、大隣寺も二本松に移築されてしまったため、建物は無くなってしまいました。
墓のある場所は、ちょっと山に入っていく感じです。

長重の霊廟の拝殿は天保7年(1836年)に再建されました。
宝篋印塔は4.27mあるそうです。
法名は、「大隣寺殿前参議三品傑俊浄英大居士」です。

 

※なお、かつての震災の際に灯篭等が倒れていたみたいです。
今はどうなっているかは分かりませんがご注意ください。

 

 

かつての大隣寺の名残といえばこの池ぐらいでしょうか。

 

 

これも寺の名残。

 

 

丹羽長重の霊廟。

 

 

墓前にある拝殿。

 

 

拝殿の彫刻。見事です。

 

 

拝殿の後ろに回ると丹羽長重の宝篋印塔があります。

 

 

丹羽長重の墓石。

 

 

高野山にある丹羽長重の墓はこちら。

 

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