武将の墓 | 尼子経久の墓 - 洞光寺!下剋上によって11ヶ国を領した男! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、尼子経久の墓の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
尼子経久 洞光寺 島根県安来市広瀬町広瀬1431

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尼子経久の墓は洞光寺にあります。
発見難易度★☆☆☆☆

駐車場があります。


下剋上によって11ヶ国の太守へ

尼子経久(つねひさ)は出雲の守護代・清定の嫡男です。
幼少期は人質として京極家へ預けられ、京極政(きょうごくまさつね)の偏諱を賜り、久と名乗りました。
その後、出雲に戻り、文明10年(1478年)、家督を相続しています。

文明16年(1484年)、出雲の守護・京極政経によって守護代を解任され、その上、居城・月山富田城を奪われてしまいます。
しかしその2年後、経久は城を奪い返すと、次いで政経を出雲から追い出すことに成功。
典型的な下剋上によって出雲を奪い取ります。
三男の興久を出雲の実力者・塩谷(えんや)氏の養子に送むなどして出雲の国を手中に収めると、 以降、隣国への勢力拡大を図ります。

経久は着実に領土を広げ、最終版図は、出雲、石見、隠岐、伯耆、因幡、安芸、備後、備中、備前、美作、播磨の11ヶ国にまで及びました。

 

本堂。

 

 

尼子経久(左)と父・尼子清定(右)の墓。

 

 

尼子経久の墓。

 

尼子経久の銅像はこちら。

 


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