城めぐり | 本栖関所跡 - 織田信長、天正十年四月十一日、本栖に宿す! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

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織田信長が甲州からの帰陣の際、四月十一日に宿した本栖の紹介です。
織田信長人生最後の観光旅行~信長初めて富士山を見るともリンクしていますのでよろしくお願いします。

 

城名(別名) 住所 関連する人物
本栖関所跡 山梨県南都留郡富士河口湖町本栖 織田信長、徳川家康

 

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信長が宿した本栖の集落の面影は今はありません。
ですので、おそらく集落の入り口に位置していたであろう関所の跡を訪ね、その周辺を散策しました。
地図は関所跡をマークしてあります。

くるまr駐車場はありません。


織田信長、威風堂々の凱旋旅行
織田信長は武田勝頼を滅ぼすと、息子・信忠を諏訪に残し、先に帰国の途につきます。
武田領への侵攻ルートは、安土→岐阜→岩村→飯田→高遠→諏訪と岐阜県から長野県へと入るルートでしたが、
帰りは、甲府から南下し中道往還を通り→富士川を渡って東海道を西上するというルートを選んでいます。

織田信長、四月十一日、本栖に宿す
織田信長は甲府から中道往還を南下し、柏坂と女坂の難所を越え、精進湖集落へと至りました。
そこからさらに中道往還を進み、その日、四月十一日は本栖に陣を敷いています。

以下、「信長公記」に記された織田信長の本栖に宿した際の様子です。

 

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「信長公記」

四月十一日早朝、
左右口(うばぐち)を出発。
女坂という高山を登った。
谷あいに茶屋、厩が立派に建ててあり、酒肴の接待あり。

柏坂(迦葉坂)もまた高山で樹木が繁っていたが、道の左右の大木を伐り払い、道を整備し、石を取り除き、山々峰々には隙間なく警固の兵が配備されていたので、困難ではなかった。
柏坂の峠には茶屋が小綺麗に建てられ、酒肴が供された。
(峠を抜け、
精進の集落を通過。ここで再び富士山を見る。)

この日は本栖に入って陣を敷いた。
本栖にも宿泊所が輝くばかりに立派に建ててあり、二重三重に柵を造り、さらに将兵のための小屋が千軒余りも周辺に建ててあり、将兵の食事も用意されてあった。
家康の配慮はありがたいことであった。


~以上が「信長公記」に記された織田信長が本栖に宿した際の様子です。
相変わらず徳川家康、気を使ってますね。

さて、現地レポです。
織田信長が宿したであろう本栖の集落の面影は今はありません。
ですので、おそらく集落の入り口に位置していたであろう関所の跡を訪ね、その周辺を散策してみました。

 

国道139から見た本栖湖。

 

 

本栖関所跡。

 

 

案内版。

 

 

関所跡。

 

 

関所跡。 遺構は残っていません。

 

 

関所跡から中道往還を本栖湖方面へ。

 

 

山神社。甲斐駿河の国境にあり、国境警固の神として武将からの信仰があったそうです。

 

 

さらに中道往還を進む。

 

 

街道っぽい雰囲気が残った地。左の松なんて多分古くからあったでしょうね。

 

 

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