武将な寺社めぐり | 小松寺 - 里見家の財宝を探せ!埋蔵金伝説が残る寺 | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
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小松寺の紹介です。

皆さまは年末年始どこかへ行かれましたかはてなマーク
僕は年始に母と房総(千葉県)へ行ってのんびりしてきました。
母と一緒なので、お城は行きませんでしたけど、ドライブがてら歴史散策へ。
少しの間、お正月の旅を紹介しますね。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道」の史跡めぐりの旅は少しお休みです。

寺社名ゆかりの武将住所
小松寺(こまつでら)役小角、小松千代若丸、小松民部正壽、里見義実、里見成義、里見義通、里見実堯、里見義豊千葉県南房総市千倉町大貫1057
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小松寺は安房の大名・里見家の居城であった稲村城の近くにあります。
くるまr駐車場があります。

小松寺は役小角(えんのおづの/おずぬ)が文武天皇の代(683~707年)に小さな庵を建ててより始まります。
天長8年(831年)に堂塔が建立されますが、平安時代前期に全焼メラメラし、延喜20年(920年)に再建されます。
再建後は七堂伽藍を誇っていたようですが、約900年後の安政元年(1854年)にまたもや全焼メラメラしてしまいます。
そのため、歴史あるものは残念ながら残っていません。

財宝は、旭さす夕日輝く双樹の下はてなマーク
さて、この小松寺ですが、里見家の財宝伝説宝
キラキラが残っているんです。
2度の大火によりすべてが灰になっているので、詳しい経緯は分からず、文書も残っていないそうですが、お寺には、
「旭さす夕日輝く双樹の下に、漆千盃、朱千盃、銭十億万貫埋めておく。非常の際はこの財宝用いるべしキラキラ
と伝えられているそうです。
なんか、悟空じゃないけど、わくわくしませんかはてなマーク
時代劇に出てきそうな文言ですよね。
十億万貫って桁すごくないですかはてなマーク
この一文とそれが里見家のものであるという事だけが伝わっているらしいです。

里見家の財宝であるならば、それはいつの時代に埋められたものなのかはてなマーク
ちょっと考えてみました。
このお寺から5kmほどの所には稲村城があり、かつては里見家が本城としていました。
里見家は初代・義実(よしざね)が安房に上陸し白浜城を居としたのに始まり、以降、白浜城→稲村城→久留里城→佐貫城、岡本城→館山城と居を移しています。
稲村城最後の城主が義豊(よしとよ)で、以降は廃城となっているので、義実~義豊までの間に埋められたことになります。
義実~義豊までは、
義実成義(しげよし)→義通(よしみち)→実堯(さねたか)→義豊という順で、簡単に紹介すると、
2代成義:義実の子。謎多き人物で文書など存在を裏付けるものも残っていない。
3代義通:成義の子。30代で早世。
4代実堯:義通の弟。義通の子・義豊はまだ幼かったため、後見人という名目で跡目を継ぐが、義豊が成人した後も跡目を譲らず、義豊によって討たれる。
5代義豊:3代義通の子。4代実堯の子・義堯(よしたか)によって討たれる。以降、6代義堯の系統が里見家本流になる。


消された直系里見家の歴史
なんか、5代までってさらっとしてるんですよね。
義通が義実の子で長生きだったとか、成義は架空の人物だとか、実堯は家督を継いでいないだの、いろんな説を唱える人がいるぐらい、里見家5代までは史料が極端に少なく確証がないんです。
というのも、5代義豊が、6代義堯に討たれた戦を天文の乱っていうんですけど、これによって直系と傍系が入れ替わってしまい、以降の里見家当主が傍系である憂き目からか、直系の歴史を悉く消し去ってしまったからなんです。
直系にゆかりのあるお寺の方に話を伺いましたが、仏像に刻まれた文字も削られているそうです。

もしかしたら、財宝のありかを印した地図や文書は火災ではなく、傍系という事実を消し去りたい里見一族による破壊工作の中で消失したのかもしれませんね。
もしそうだとしたら、抜かりましたな里見殿( ̄▽+ ̄*)ははは

で、誰が埋めたのかはてなマークに戻りますけど、これからは僕の想像です。
2代成義はどこまで活躍したかが分からない、3代義通は早世、4代実堯・5代義豊は統治時代が短い、という事から考えると初代義実が怪しいですかね。
それとも、「非常の際はこの財宝用いるべし」いう文言からすると、自分が討たれるかもしれない危険があった4代実堯も怪しいですかね。
どうなんでしょはてなマーク
ま、どうでもいい事ですかね(・・。)ゞ
ちなみに、有名な南総里見八犬伝は、初代義実が発端となっています。


財宝はどこにあるはてなマーク
話がそれましたが、財宝を求めて…ではなく、伝説の地を訪れたくて、小松寺に行って来ました。
行ってみて分かりましたが、まー見つかる訳ないわなビックリマーク(`∀´)はははははは
このお寺、山深い所にあるんですよ。
寺領がどこまでかは分かりませんが、まわりは山ばかり。
樹木なんかいくらでもあるんですよ。
双樹って言われても…。
アザラシの中からオットセイ見つけるより難しいと思いますよ。
目印になるような木だったんでしょうけど、今となっては難しいでしょうね。
野原の中の双樹なら目立ったんでしょうけど…。


と、いうわけで、以下レポートです。


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寺の石垣には奥に続いていそうな石組みが…。
この寺に宝があると思うと、怪しい気がしてくる…。



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仁王門。



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仁王さま。



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梵鐘。
千代若丸の供養のために応安7年(1374年)に寄進されました。


千代若丸(ちよわかまる)とは…。
千代若丸の悲劇は、小松寺七不思議の1つ、「晴天の雨」として語りつがれています。
平安時代の火災の後、小松寺は国司安房守・小松民部正壽(あわのかみ・こまつみんぶまさかず)によって延喜20年(920年)に再建されます。
翌年、再建を祝した式典での事。安房守の嫡男・千代若丸が慶賀の稚児舞をしている最中、突然怪物が現れ、千代若丸を掴むと天高く舞い上がり、北の山へと去ってしまいました。
これは天狗の仕業に違いないと、すぐに家臣が後を追いましたが、山へ着くと千代若丸は既にこと切れていました。
従者乙王(おとおう)は責任の痛感と大きな悲しみのあまり、後を追って滝に身を投げてしまいます。
それ以降、毎年千代若丸の亡くなった2月15日は、どんなに晴天であっても小松寺周辺だけは雨が降るといいます。
人々はこれを千代若丸と乙王を偲ぶ涙雨だと言ったそうです。


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梵鐘には、為千代若丸と刻まれています。



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本堂。



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まわりは山だらけなんですよね。



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双樹…。
あちこちにありました(・・。)ゞ
もっと大木なんでしょうね。



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役小角が錫杖を突いて掘ったという井戸。
昔は眼を洗って眼病治療を祈願したんだそうです。



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里見家の本城であった稲村城。小松寺から5kmほどです。
これは昔に行った写真です。


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