高校初めての遠足は、クラスで相談してどこにでも行っていいことになっていた。ほかのクラスはバスを借りて近くの遊園地に行くとかそんな話がちらほら耳に入ってきていても、私のクラスは何も決まらなかった。そんなある日担任が、

「うちのクラスは、松代にサイクリングだ」と言い出した。松代から通学している同級生がいる中、大ブーイング。私だって松代なら中学の遠足で行った。落胆のホームルームの中、

「だっておめた決めらんねえから、オデ決めたやった。(一部方言)」と涼しい顔。担任とすれば、歴史ある松代城下町に近い学校に進学したのだから地域の歴史に少しは目を向けろとでも言いたかったのかもしれない。というか、自由時間に自分のクラスメイトの大半を海津城址において、希望者の数名と地震観測所に行ってしまったところを思うと、自分が行きたかったのか。クラスメイトはビーチボールで遊びだす人もいれば、

海津城址でウダウダしている人もいたし。私は友達と真田宝物館に行って、真田家のお宝を見学してきたけれど。

 担任も自分で行くといったからには、ただ連れて行ったわけではなく、ちゃんと真田家菩提寺の長国寺に話をつけて、見学の予約をしてくれたらしい。地元の高校生だからということで、普段は公開していない歴代真田家のお墓も案内してもいただいたのですがねぇ。真田家は譜代扱いで国替えがなかったので歴代のお墓が並んでいる珍しい菩提寺って言われてもねぇ、イヤイヤやだやだしょうがなしで連れてこられてるからあまり興味ないし。。

その時の案内のおばさん、

「皆さん、地元の高校生ということですから『日暮硯』は読まれてきましたよねぇ」いやそんな話知らないし。誰も読んでないって。担任はちゃっかり読んでいたようだけれど、なんだか小ばかにされたような気がして。後でちゃんと読みましたよ。

 それ以来、真田家に関することはちょっと勉強しようと。恩田木工については、池波正太郎の『真田騒動 恩田木工』の方が楽しく読めると思いますけど。

 大河ドラマ『真田丸』の前半はそりゃ楽しかったですよ。もう、見知ってる地名がたくさん出てくるんですから。でも知っているのは東北信だけ。いつか群馬の真田家由来のお城にも行ってみたいなぁと、思い続けていたのを決行。

 

 松代城下町を抜け長国寺の前を通り地蔵峠を経て、真田の役場の前から国道144へ。道のわきに「真田街道」の看板が。そうですね、ここらか沼田までには石櫃城もあるしね、今回はいかないけど。周りがキャベツ畑だらけになったころ、144号が全面通行止め。中之条方面へのう回路の案内に従って車を進める。

 なんだか目の前の所沢ナンバーの高級車がうざい。きっと田舎道運転したことないだろうな。カーブや対向車が来ると極端にスピード遅くなるし、無駄にブレーキ踏むし。

 話はそれますが9月上旬のこと、子供たちにどこか連れていけと言われて戸隠に行った時のこと。長野県庁から大峰城のわきを通って、最短で戸隠高原に通じるほっそい道。昼を食べてからそこを上れば、県外車の帰る時間。地元ナンバーはもちろん、県外ナンバーの車だってセンターラインを越えて下ってくる車なんてめったにない。でも時々センターラインを越えるどころか、道の真ん中下ってくる車のナンバーを見れば、所沢・世田谷・足立。山の細いT字路で一時停止しないで飛び出したのは杉並ナンバー。高速道路に続く道で車線内で蛇行運転している車は、練馬ナンバーだったなぁ。県外ナンバーをいじめるつもりはないけれど、ちゃんと運転してください。

 キャベツ畑の見通しのいい一本道になり、追い越しをかけようとしたら道の真ん中走り出したし。まさか後ろの軽自動車に追い越しかけられると思っていなかったよう。長野県ではねぇ、自分の後ろに何台か車が続いたら後続車に道を譲る古い習慣があるのです。だから少し車間距離詰めると、道譲ってくれるんだけどねぇ。今はどうだろう?

 国道はに戻ると、145号にいつも間にやらかわってる。道路わきに岩櫃城まで6キロの看板を発見。その後いつまでたっても岩櫃城への案内板を発見できず。今度岩櫃城に来る時には、気を付けてみることにします。

 いくつかの街を通り過ぎ、12時近くなったら飲食店街なくなっちゃいました。困った、ファミレスにばばぁ一人で入づずらいからって連れてきた息子に怒られる。田んぼの中に道の駅の看板を発見。いやぁよかった、ここまで来てコンビニのサンドウィッチとか言ったらご機嫌悪くなっちゃうもんね。私はたぶん地元産と思われる天ざるそば。息子はラーメンでいいのかね。それも普通。いいならいいんだけど。

 自動販売機の前で地元の方が話しているのが耳に入ってきた。

「○○村と△△村を収めていた殿様が、真田についたり、北条についたりしていた時の城云々。江戸時代の城みたいに天守閣とかないけど云々」村の名前は聞き取れなかったけれど、息子がナビを見ながら城跡があるとか叫んでいましたねぇ。道の駅のトイレの前に案内板を発見。一寸帰るけど、行ってみますか。息子は全く不服そうですけど。

 

 

 

 国道から看板の通りに入ったら車場らしきとこないじゃん。看板よりも少し西に待避所のような駐車場が。こちらにもしっかりした案内板があり。ちょっと見、田んぼの中に古墳があるよう。本丸に通じる道にもこののぼりですか、いいけどさぁ。本丸跡には、土塁が見られます。

 ここから国道を外れ県道36号を北に車を進めると、名胡桃城に到着。駐車場は廓の跡地なんですって。遺構を基に土塁とか復元されています。行けるとこまで歩いてみましたけど、さして大きくないお城。このお城が小田原攻めの発端になったなんてねぇ。駐車場入り口のわきにある喫茶店のような建物が、案内所でスタンプの設置場所。

 続100名城のスタンプ帳で、岩櫃城・名胡桃城・沼田城のを押すとクリアファイルがもらえるとか、群馬の三つのお城に加えて上田のお城の御朱印で特別な御朱印がいただけるとか。松代のお城だけ仲間外れ。

 

 古いナビに沼田城までの道案内を頼むと高速に入れようとする。いやいやいや、そこまで遠くないでしょ。国道17号で十分ですから。町の案内板の通りに車を進めると、目の前に大きな鳥居が、鳥居のわきには案内所が。持ってきたゲーム機のバッテリーが切れたようで、ここでようやく息子が城内の散策に同行するとか。案内所で、続100名城のスタンプ、そのほかにも何種類かスタンプがおいてあったのですが、持参のレポート用紙に喜んでスタンプを押しまくる息子。一体お前さんはいくつだい。

一部残っている石垣。上田城の石垣となんとなく雰囲気似てる。

「上田城とどっちが大きいかなぁ」と私。

「なんでそこで上田と比べる?」と息子。いやねぇ、同じ真田のお城としてだねぇ比べてみたいじゃない。

「昔って言っても、真田丸が放送された年に上田城からこの沼田までのろしでつながれるか実験したみたいだよ。結果は忘れたけど」

 名胡桃城が見渡せる広場でそんな話をしても、息子は全く興味を見せず。まぁいいか。ところで上田城といい、飯山城と言い、この沼田城といい、本丸に神社があって周りが運動公園ってところ多くないですかねぇ。

 
 『真田騒動』にちらっと沼田真田家の描写が。最近ネットのおすすめ記事に江戸時代の暴君として、沼田藩真田信利の記事が流れてきました。ほんとは松代10石を継ぐはずだったのにと癇癪を起して、藩政をめちゃくちゃにした人物。母曰く、松代藩は実際の広さよりも小さく幕府に報告していたかもしれないとか。我が家の田んぼ5畝だけど実際には8畝あるんじゃないかと。その反対に3万石なのに15万石って報告しちゃった藩主様。上田や松代には天守閣がなかったといわれているけれど、豪華だねぇ。
 
 真田氏の歴史に思いをはせながら沼田インターを目指したのでした。