球体認識について1でもご紹介したのだけど、

「22を超えてゆけⅡ太陽の国へver.2 6と7の架け橋」(辻麻里子著)

下記の様な箇所があります。

 

自分の内側から 外の世界を見るというベクトルだけで、
その反対の視点をまだ獲得してはいないのだ。
ミクロコスモスでありマクロコスモス、
個であり全体、
全体であり個であることを理解するには、
世界を反転させ
双方向のベクトルを束ねることである。

どちらか一方に固執することなく、
包括的な視点に立つことが重要なのだ。
360度の球体の視点を獲得できれば、
多次元的な意識に到達できるだろう。

今まで常識的に信じていたことも、
角度を変えて見ることが重要である。

 
統合意識を構築していき、

”360度の球体の視点を獲得できれば、

多次元的な意識に到達できるだろう。”
とあります。
 
地球さんには古い霊的な情報領域と、
新しい霊的な情報領域があって、
統合意識領域に到達すると、新しい方へ接続されます。
存在軸もそちらに移行しますが、
この新しい領域は5次元(5.1次元)から始まっています。
古い方は4次元(4.9次元まで)です。
(5.0次元が待機領域になります)
 
今の地表上の物質次元は3次元ではなくて4次元です。
なので勘の善い人は、不可思議な現象をよく経験するかと思います。
 
例えば目の前の人は生きている人だと思っていたら、
実は亡くなった方だったみたいなことも、
起きているそうです。
私はよく分りませんけど。
 
 
この記事では次元というものについての考え方のヒントになりそうな資料を、
いくつかこちらでご紹介しておきますね。
 
「宇宙の羅針盤・下」(辻麻里子著)には、
下記のような例えがあります。
次元とは周波数によって分かれていることは
知っているだろう。

その周波数を分かつ壁があり、
その壁は細かい網目状の膜のような構造であり、
互いに混じることはない。

次元の浸透圧を3次元的な言葉で説明すると、
高次元と呼ばれている領域に
行けば行くほど意識は微細になり、
反対に3次元の物質次元は粗くなる。

微細な意識は多次元を行き来できるが、
粗いものは自分が存在する次元から
そう簡単に移動することはできない。

多次元を行き来する秘訣は、
螺旋階段をのぼるように
周波数をあげて微細な存在になることだ……
 
”周波数をあげて微細な存在になる”
といった部分だけが独り歩きして、
”ワクワクすれば5次元に上昇する”みたいな、
上っ面スピが横行しているのだと思います。
 
その微細な意識になる為には、
善悪二元論から脱しないと到達出来ず、
球体の様な視点を獲得する必要があります。
 
そこが抜け落ちている情報ばかり流されているのは、
支配者層の思惑も勿論ありますけど、
ワクワクするだけならお手軽で誰にでも出来るからでしょう。
 
 
「フラワー・オブ・ライフ」第1巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)では、
下記の様な説明があります。
 
あまりにもたくさんの次元や世界が存在するために、
それらを認識することは人間の許容量を超えてしまっています。

それぞれの現実レベルはかなり特殊で数学的なものであり、
各レベルごとの間の空き方や波長は、
音楽のオクターブ内の関係性や、
生命の他の面との関係性とまったく同じようになっています。

しかし、いま現在のあなたの3次元的意識は
たぶんあなたの高次の面とつながりにくく、
そのためこの地球上で何が起きているかという
認識のみがあるのです。

これは転落していない本来の状態にある存在には、
普通はあり得ないことです。

通常、存在はまずいくつかのレベルを
同時に認識するようになり、
やがて成長するにしたがって、ついには音楽の和音のように
一度にすべての物事や場所を認識できるまでになるのです。
 

”存在はまずいくつかのレベルを同時に認識するようになり、

やがて成長するにしたがって、
ついには音楽の和音のように
一度にすべての物事や場所を認識できるまでになるのです。”
とありますが、
この意識状態を統合意識や球体認識といった言葉で、
説明してきました。
 
よくスピ系の人たちが言うのは、
5次元に上昇すると3次元の人のことは分からないわ!
みたいな選民思想ですよね。
 
これは例えばドミソの和音で例えると、
私は5次元だからソしか聞こえないの!
と言っている様なものなのです。
しかし、多次元的な意識というのは、
ドもミもソも同時に捉えてそれぞれの音が何かと、
答えることが出来る状態のことを言うのです。
 
なので、あのなんちゃって5次元の人たちは、
自分たちの思い込みの5次元の定義を披露していることになります。
深く考えなくても排他的なので、
5次元ではないだろうなというのが分かると思いますが。
 
 
5次元がどーのアセンションがどーのとかいった情報は、
統合領域に意識が到達した人たちのことで、
その意識状態というのは多面的であるということになります。
 
他の場所でも何度かご紹介していますが、
私の尊敬している方が次元をエレベーターに例えて説明していて、
人によって1階から4階まで行ける人、
5階までの人もいるし、8階までの人もいる様な状態です。
共通してる階は同じ景色が見えるけど、
4階までの人は5階や6階を見る事は出来ない。

5次元だのアセンションだのというのは、
地球さん自身が次元上昇するので(し続けているので)、
最終的には4次元より下の部分、
エレベーターの例えだと、4階を切り捨てることになります。
 
そうなると、どういう事が起こるのか。
 
1階から5階まで行ける人なら、5階に上がればよく、
影響を受けませんけど、
5階まで行けない人は、一緒に切り捨てられた様な状態になります。
 
自由意志が尊重されていて、
何を選択したとしても自己責任です。
 
幼稚園の子がいきなり中学校に通おうとしても、
何も理解することは出来ないでしょう。

 

霊的な学びや成長というのは、
確実に一段ずつ積み上げていくもので、
その土台がしっかりしていなければ、
簡単に何かのきっかけで崩れ去ってしまいます。
飛び級はないのです。
 
魂の旅に終りはありませんから、

 

地球さんでの学びでは、
切り捨てられる領域に存在したとしても、
別の領域が用意されていますので、
何も心配することはありません。
 
最近よくあるラノベ系の異世界転生モノは、
沢山読んでいますけど、
この流行は人は転生するものだ、
一度の人生で終わりではなくて、
また別の人生も経験するものだというのが、
前提になっていて、
地球以外の場所に生まれ変わることもある、
といった設定も自然に受け入れられていますよね。
こういうのも集合意識の現れだと思います。
ここでの生が終ってもまた次の生が始まり、
その場所は地球とは限らないというのが、
無意識の部分で受け入れられてきているのかなと、
感じています。
 
 
切り捨てられると書きましたが、それには意味があります。
領域から見れば切り捨てになりますけど、
自分から見ると留まれないということなのです。
 

「レムリアの真実」(オレリア・ルイーズ・ジョーンズ著)では、

下記の様な説明があります。
 
過去と現在の、感情体と精神体の、
すべてのネガティブなものをきれいにして癒されなければなりません。

痛み、怒り、嘆き、罪悪感、悲しみ、トラウマ、
恥、中毒、絶望、低い自己評価、否定的な印象、
不健全な雰囲気などの、過去と現在の
全記録を進んで受け入れ、
無意識と太陽神経叢と感情体から解放しなければなりません。

もし、神聖な愛より低い波動の感情や思考が少しでもあれば、
テロスの高いエネルギーの波動のせいで、
それらはマインドや感情の中で千倍以上に増幅されるでしょうから。

あなたが入念にそれらの記録を取り除いてこなければ、
そのように増幅されたものはトラウマになりかねませんし、
あなたは私たちの波動の中にせいぜい数分しか留まれないでしょう。
 
私の経験では、
全てに肯定的でまるで観音様の様な方と対面してお話した時、
自分の考えや感情がとても汚く感じて、
小さくて心の狭いどうしようもない人間に感じて、
結構イライラしました。
 
その人は私に対して何の悪意も持っていないし、
鏡の法則を理解していた時だったので、
私自身の問題が、相手の人に投影されていると、
冷静に対処できたのですが、
もしもっと昔の自分だったら、
相手が悪い様に思って怒っていただろうなと思いました。
 
嫌味っぽいとか、わざとらしいみたいな言葉で、
蔑んだのではないかと。
 
心の綺麗な人を前にすると、
自分の汚れが目立つんですよ。
ものすごく辛いです。
 
それと同じような現象が、
5次元領域に存在する時に起きるのだと思います。
 
自分のネガティブな面が増幅された様に感じて、
精神状態を保てなくなるんですね。
 
いくらアセンションしたいとか言っても、
それを支えるものが創られていなければ、
強制的に次元上昇することが出来ても維持できないのです。
 
ですからコツコツと統合意識を構築する必要があります。
 
 
「フラワー・オブ・ライフ」第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)には、
下記のような説明があります。
 
イエスはたとえ話の最後にそういう人たちに触れ、
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」
(訳注・新約聖書「マタイによる福音書」22章14節より)
と言っています。

イエスのたとえ話には麦を栽培する農夫の話もあります。

使用人たちが、麦畑に雑草がたくさん生い茂っているが
どうすべきかとたずねます。

すると農夫は答えて、雑草も麦と一緒に育てて、
収穫時にまとめて刈り取り、
それから麦と雑草を分ければよいと言います。

雑草は伸びる前に取り除くのが普通ですが、
その農夫が言ったことは違いました。

イエスはここで、準備ができている人と
できていない人という、2種類の人々について
言及していたのです。

準備ができていないとは、恐れや憎しみなどを
全部持ってきてしまうという意味です。

そういう人がこのきわめて奇想天外な世界にいる
自分自身を見出したとき、
その恐怖や怒りが現実化します。

何であれ自分の思ったことが形をとる
ということを知りませんから、
自分の恐れを現実化させてしまうのです。
 
恐怖や怒りを現実化してしまう人については、
”そのような人々を高次の世界から連れ去り、
もと来た世界に戻すという、ある種のシナリオが稼働します。”とあります。
 
これがイエスの言う
「剣をとる者はみな、剣で滅びる」
(訳注・「マタイによる福音書」26章52節より)
という言葉の意味です。

イエスはまたこうも言っています

「柔和な人たちは、さいわいである。
彼らは地を受けつぐであろう」
(訳注・同5章5節より)。


これはあなたが新しい世界に、
愛、調和、平和、そして神と自分自身への信頼
というごくシンプルな思いだけを持ち込んでいれば、
あなたにとってはまさしくそういう世界が展開することを
意味しています。

あなたは調和のとれた美しい世界を具現化するのです。

あなたが「柔和」であれば、その考えと感情と行為によって
高次の世界に留まることができ、生き続けていくことになります。
 
上記は、準備が出来ていない人が、
高次元領域に留まれない理由ですが、
高次元領域側の理由もあります。
 
それが下記の「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)の部分です。
 
そうじゃないんだ。
ただ”よい種”の選択をしているんだよ。

よいひとたちだけによって、
戸を開けはなしたままでも
安心してねむれるような、
自分のものを兄弟とおなじように
他人が自由に使ってもいいような、
安全な社会をつくり出せるんだ。

いま見ているような
にげ出したひとたちというのは、
ざんねんなことだけど
”よい種”ではないんだ。

もし、かりに新しい世界に
住むチャンスをあたえられたとしても、
彼らは人々に奉仕したり
協力したりする行動はとらないよ。

ほんとうに単純なことだけど、
彼らには愛が不足しているんだ。

じっさいに彼らは、
そのエゴイズムによって
にげるという行為に走ってしまったんだよ。

健康な生活とか、
心身の浄化とか、
精神の進歩といった名目に
カモフラージュされたエゴイズムだ。

ちょうど自分の健康が第一だと言って、
病気に感染するのをおそれて
病院をにげ出す医者のようなものだよ。

もし、すべての医者がそうしたとしたら、
かわいそうなのは病人たちのほうだよ
 
他者への奉仕に生きる人たちの中に、
自己への奉仕のような人が入ってきたら、
貪り尽くすでしょう。
 
他者への奉仕の人たちに囲まれると、
益々自分が惨めになるので、
止められなくなると思います。
 
振り分けが行なわれるというのは、
存在出来る周波数帯によって住み分ける、
ということになりますが、
それがお互いの為には最善の方法なのです。