”宇宙は巨大なコピー機である”みたいな言葉が、

10年以上前のネットのスピ界で流行っていて、

あれの元ネタはなんだろうと検索していたら、

「神との対話」(ニール・ドナルド・ウォルシュ著)だったのね。

 

すごく有名な言葉だと思うのだけど、

一応手元に残して置いた一冊に載っていたので、

早速ご紹介しますね。

 

 

あなたは、焦点が定まっていない。
自分にとっての真実は何か、
あなたには確信がない。

宇宙というのは、巨大なコピー機にすぎない。
あなたの考えを何枚もコピーするだけだ。

すべてを変える方法はひとつだ。
あなたの考えを変えるしかない。

 

「神との対話」は読み込んでいくと、

ちょっと私には物足りない部分があったので、

(といいつつも確か3巻くらいまでは読んだ記憶が…)

しつこくは追っかけなかったのだけど、

読みやすくていいよね。
 
最初に読んだ時に、自分の価値感を見直すのに、
とても役立ちました。
ユーモアに溢れていて、
違う角度から物事を捉えるきっかけになる様な、
内容だと思います。
 
ただ、対話している存在を”神”と見るのは、
私はちょっと抵抗があるので、
ガイドとかハイヤーセルフ的な存在として、
読んでいました。
 
上記のコピー機の例えと同じような内容かなと思うのが、
「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)の、
下記の箇所です。

 

何かを見て、それを経験したいと思い、
「うん、あれが欲しい」と考えると、
あなたは向けた「関心」を通じて、
その対象を経験のなかに招き寄せる。

だが何かを見て、それは経験したくないと思い、
「ああ、とんでもない、あんなのは嫌だ!」
と思っても、向けた「関心」を通じて、
対象を経験のなかに招き寄せてしまう。

万有引力を基盤としたこの宇宙では、例外はない。

関心を向けると、対象があなたの波動に取り込まれる。

関心や認識が長期間持続すると、
対象が「引き寄せの法則」によって
あなたの経験のなかに取り込まれる。

「ノー」はあり得ない。

もっとはっきり言うなら、あなたが何かを見て
「ノー、そんな経験はしたくない、消えてくれ!」
と思ったとしても、実際にはあなたはそれを自分の経験のなかに
呼び込んでいる。

万有引力を基盤としたこの宇宙では、「ノー」はないのだ。

関心を向けるのは、
「イエス、望まないことよ、わたしのほうへおいで!」
と言っているのと同じことなのだ。

 
 
ちなみに「アミ 小さな宇宙人」のシリーズもオススメです。
児童書なので子どもに毎晩読み聞かせていましたけど、
大人でも楽しめます。
というか大人向けをわざと子ども向けにした本ですよね。
あとは、やっぱり「サラとソロモン」のシリーズもよいです。
古本屋でお安く購入できると思うんだよね。
 
どれがとか誰がとかは書かないけれども、
チャネリングの本って、
100パーセント正しくて、善いというものでは、
ないと思います。
だから鵜呑みにしないで、
一つの考え方、意見として受け止めましょう。
 
それとね、
やっぱり評判になって儲かってくるせいか、
続巻が出る度に、「うーん???」みたいになる本も多いです。
 
詳しく書きませんが!
 
内容に不純物が増えたり、
ほぼ含まれていないのでは?みたいになったり。
 
なので初期の頃の方がよかったなみたいな方が多いです。
勿論、私の個人的な好みですけどね!
だから鵜呑みにしないでね!
 
 
宇宙はコピー機であるというのと、
「ノー」はなくて「イエス」しかないというのは、
同じことなんだけど、
宇宙とか、私は創造主みたいな捉え方をしていますが、
全てを肯定しています。
 
私たちが望むものは全て与えようとする、
というのが宇宙の仕組みで創造主の愛です。
 
この宇宙に存在するもの全ては、
創造主に許されているので存在しています。
 
私たちが想像できないようなものは、
存在することが出来ませんし、
出来ないようなことは許されていません。
 
例えば、善と悪であったり、
天使と悪魔であったり、

みんなが幸せに平和に生きるようなことも、

争い苦しみ憎しみ殺し合うようなことも、
どちらもあるのは、創造主から許されているからです。
 
普通は倫理的なものとか、法律が―とかいったもので、
気に入らない奴はやっちまえなんて、
考えもしないと思うのですが、
実行する人もいる訳です。
 
もし、絶対に人を殺してはいけないと、
創造主が決めているなら、
誰ひとりとして思いもしないか、
やろうとしても何らかの力が働いて出来ない、
というような状態にあります。
 
でもそうではなく、
選択可能なすべてのものなら、
一人一人にそれを選択するのか、しないのか、
自由意志が尊重されています。
 
創造主がやっちまっていーよ!と思っているわけではなくて、
自分で選んでその責任は自分で取りなさい、
という仕組みを創っているので、
これが宇宙法則ですけど、
自由に選べる状態にあるのです。
 
実際にとことんやらなきゃそれが何だか分からない、
という人にはどうぞやってみてとなりますし、
そういう人を見ることで何かしらの学びになる、
という人もいます。
 
もし罪を犯すなら、
それを創造主が罰するのではなくて、
法則によって自分を罰することになります。
 
法則によって創造主自身も規制されているので、
自由があり、全てを肯定しているのです。
 
 
自分が嫌だなとか拒絶して否定しているものも、
宇宙からは「それが欲しいのね?」と肯定されて、
そのままコピー機の様に創造されるのも、
仕組みになっています。
 
自分で自分の現実を創るとかよく言います。
鏡や投影という記事で書いたけど、
外側のものごとや誰かを、
自分の内側を投影して、見たいように見ている、
という意味では、
自分で自分の現実を創っていると言えます。
 
それとコピー機である、すべて肯定して、
そのまま返してくれる、
自分の望みを叶えるように宇宙は動く、
といった法則からも、
自分で自分の現実を創っているとも言えるのです。
 
勿論、それは自分の現実であって、
私の目の前に居る誰かも、
私が創造したのだ!ということではないです。
 
私の内面の何かを映す鏡として、
それを見たいと私が欲したから、
目の前に居るその人を通して、
見ることが出来るように、
私の現実に現れたという意味では、
自分で創ったと言えるでしょう。
 
目の前に居る人の言動は、
その人自身の責任だけど、
目の前に居る人をどう捉えるのかは、
自分自身の責任になります。
 
私たちは地表上で様々な経験をして、
こんなのちっとも望んでいない!と思う様な、
理不尽なことも多々ありますけれども、
自分の記憶にはまるでなくても、
元々、何かしらの思惑や計画があって、
ここを選んで産まれてきています。
 
あまり細かいことをここで書くつもりはないですけど、
魂の計画書に沿った家庭環境も選んでいます。
(というかその家系に入ることが大事だったり)
 
そういう視点からも、
自分の現実というのは、
元々の原因(魂の目的)があって、
今の現実を経験しているのが結果であるので、
やっぱり自分で創っていると言えます。
 
これを拒絶する、否定すると、
親のせい、環境のせい、国のせい、
地球のせい、神様のせいみたいになってきます。

でも、なんだか理由は分からないけど、
全て自分で選んだことなのだと、
とりあえず納得することにして、
受容、肯定する時、創造主や宇宙の流れと、
一致することになります。
 
よくスピ界でも使い回されていますけど、
「これでいいのだ」とバカボンのパパのように、
言い切ってみる。
 
そうすると、とりあえず、
拒絶、否定したものの創造は止まります。
 
これを止める為には内観が必要になってきます。
 
いくら口でいいのだ!と言っても、
心が伴わないと、しっくりこないと思います。
 
自分が受容、肯定している時は、
いい気分がして、
拒絶、否定している時は、
いやな気分がします。
 
私たちは創造主の分霊なので、
全てを肯定している創造主に反する、
拒絶、否定を行なうといい気分にはなれません。
魂の望みではないからです。
 
「考えるな、感じろ!」も、
スピ界とくにワクワク信者に大人気の台詞ですけど、
 これを知る為には、
つまり、自分は今、魂の望みに沿っているかな?
ということを知る為には、
どんな感じでいるかを確かめる必要があります。
 
でもそれは、
感じたままに生きるということではないです。
 
この感じというのは、
思考に左右されます。
 
これは善いことだと考えていることには、
いい気分がして、
悪いことだと考えていることには、
いやな気分になります。
 
だからいい気分がすることだけを、
選んでいけばいいのでしょうか?
 
善悪二元論についてという記事を書きましたが、
全てのものごとは表裏一体なのに、
善い事なんだとか悪い事なんだとか、
善いか悪いかに振り分けて考えるのは、
物事の片面して見えていなくて、
偏っていますよね。
 
では、いい気分になるというのは、
本当に、自分にとって善いことでしかないのでしょうか?
それとも、見たくない何かを隠して、
見たいものだけを見て、
偏った視点でそれは善いと考えているだけでしょうか?
 
単に自分の気分のよいかよくないかだけで、
物事を捉えてしまうと、
かなり偏った結果になります。
 
 
感情とは自然に湧き上がって、
どうしようもないものなのでしょうか?
 
例えば、子どもの頃押し入れが怖くて、
恐怖心で一杯になってびくびくしていたとして、
今でも同じ様にびくびくしますか?
押入れが怖い、嫌なものだというのは、
間違いなくそうでしょうか?
今、そうは感じないのは、何故でしょうか?
 

考え方が変われば感じ方が変わります。

 
逆に言えば、感じ方を変えたければ、
考え方を変えればいいのです。
 
 
これは善いことだと考えていることには、
いい気分がして、
悪いことだと考えていることには、
いやな気分になるから、
いい気分がすることだけを、
選んでいくのではなくて、
全ていい気分がするように、
善いことだと考えられるような捉え方を、
見つけていくのです。
 
全てに対していい気分がして、
受容し、肯定すると、
宇宙と創造主と一致する様になるので、
進化発展する道に進むことになります。
 
例えば、日常的なことで、
すごく嫌に感じるからやらない!とか、
どうしてもやらなきゃいけないから、
やるしかないみたいな気持ちは、
善悪二元論になっています。
 
嫌に感じることも、
いいと感じる見方があり、
やるかやらないかの二つの選択肢がある。

 

これをゴールを全ていいと感じる見方にする、

と設定してしまいます。

それから、嫌に感じたものごとを、

表裏一体で捉え直してみて、

とにかくいいと感じるような見方を探すのです。

 

今日、夕飯作らなきゃいけないな。

面倒だな。嫌だなと思っている私を例にして、

考えてみますね。

 

これをそのまま、拒絶、否定して、

夕飯を作り出すと、

嫌々作っていい気分がしないとなります。

 

これを起点としてまた、

嫌々な現実が創られてしまいますので、

変えてみましょう。

 

夕飯は作らなきゃいけないのか?

いけないのだというのは善悪二元論ですよね。

作る以外の選択肢は何か?

 

もし子どもたちが大きければ、

外で食べてきて!と言えばいいし、

それが無理なら、

一緒に食べに行ってもいいですよね。

買ってきてもいいし、

出前を取ってもいい。

 

作らなきゃいけないって訳ではないです。

 

夕飯を用意しなきゃいけないっていうことだと、

私は用意する必要があると思います。

これは、私が母親という役割を、

自分で選択していて、

もっと言えば、子どもを産む時点で、

自分の選択なので、

これに対する責任として、

夕飯を用意することがあると思っています。

 

もしそれすら嫌だという人は、

お金を払って誰かに頼んだり、

身内などに預けて頼むという方法もありますよね。

 

といったことをあれこれ考えると、

実際にやるかやらないかは別として、

”夕飯を作らなきゃいけない”とは言えないわ、

別に選択肢もあるわよねとなります。

 

面倒だなというなら、買うか食べにいくか、

とりあえず作るつもりがあるなら、

出来るだけ手を抜いて簡単な方法を探します。

インスタントラーメンとか?

レンチンの何かとか?

あれこれ考えます。

 

そうやって選択肢を広げて、

今、選べそうで、

一番いい気分がすることを選びます。

 

せっかくだから外食しよう!となったら、

ものすごく楽しいことに変わるかもしれません。

 

色々選択肢を挙げてみたら、

逆にやっぱり自分で作った方がいいや!

そっちの方が美味しいし!となることもあります。

 

最初に、夕飯作らなきゃいけないな。

面倒だな。嫌だなと思っていて、

嫌々作ったパターンと、

様々な選択肢を挙げてから、
そのうちの一つを選択して、
結果としては、やっぱり、
夕飯を私が作ったとなっても、
私の心の中は最初とは違います。
 
すごく嫌に感じてやりたくないけど、
どうしてもやらなきゃいけないから、
やるしかないという気持ちから、
意識的にこうしようと選んで、
これでいいのだと納得して、
受容して、肯定して行なっています。
 
他人から見ても、
「何にも変わらないじゃない!」とはなるでしょう。
「負け惜しみじゃないの?馬鹿なの?」と、
笑われるかもしれません。
 
でも内側は変わっていい気分になっているので、
そこを起点として現実は変わってきます。
 
私がいい気分でいるなら、
私の現実なんだから、それでいいのである。
 
笑われたとしても楽しんでくれてよかったわーと、
こちらも笑ってしまえばいいでしょう。
 
私がいい気分を宇宙に投げたので、
そのいい気分をコピーして返してくれるのです。
 
霊的な学びや成長についてという記事で書きましたが、
自覚して、それでいいと納得して、
選択しているのか?
単に惰性で流されて、
反射的な反応をしてしまう為に、
結果的に選択したことになっているのか?
 
自覚して自分で選択しているなら、
それに対しての責任も、
逃げようとせずに受け止めることが出来ます。
納得できます。
 
自分がその時、それでいいと思ったから選んだのだ。
誰かにせいにすることはありません。
 
この気持ちから自分の意識的な創造に、
着手することができます。
 
”感じ方”が変わる様に、”考え方”を変える、
というのがポイントです。