地表での生活の意味という記事では、

鏡の法則、投影をテーマにして書きました。

この記事もまた同じ様に(何度も書いていますけど)、

事実と自分にとっての真実を混同して、

妄想を事実の様に発信する人がいますので、

続けて掘り下げて書きますね。

 

 
エスパーなのか?思い込みなのか?という記事を以前書きました。
 
私は一度、記事にすればあまり繰り返して、
同じことは書かなくてもいいのかなと思っているのですが、
パクる人というのは、
熟考することなどない様なので、
何度も同じことを書く必要があるみたいですし、
鏡についてはパクれないみたいなので、
安心してこのテーマについて考えることが出来ます。
 
goo辞書では鏡であること、投影について、
”考え方や行動に心の内面が表現されること。
自分の性質を他人の性質にしてしまうこと。”

とありました。

 

また、内観とは、"内省して自己の仏性・仏身などを観じること。観心 (かんじん) 。

自分の意識やその状態をみずから観察すること。内省。自己観察。"

とあります。

 
 
例えば、ある人が林檎が好きだと言うとします。
それを聞いて、あいつは林檎が好きだと言っているけど、
本当は嘘なんだ!
林檎が好きと言う事でいい人の様に思われようと、
画策しているんだ!
と非難する人がいるとします。
 
林檎が好きと言った人のことを、
普段から好ましく思っていない人たちは、
非難した人のことを、簡単に信じてしまい、
同意します。
 
自分の気持ちや印象に応じて、
誰かに対する態度が左右してしまうのです。
 
goo辞書で事実と真実について調べてみました。
 
事実: 実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。
真実: うそ偽りのないこと。本当のこと。
 
ここでの事実は、ある人が「林檎が好きだ」と言ったことと、
それを聞いた別の人が「嘘だ」と非難したことです。
これはそれぞれが行動したことなので事実です。
 
真実という面から捉えると、林檎が好きだと言った人が、
本当に好きかどうかは分からないけれども、
その人の中ではその様に言うことが真実なのだろうし、
「嘘だ」と非難した人の中でも、
嘘にしか思えないということが真実なんでしょう。
 
それぞれの人の問題なのに、
事実ではないことに対して、
同意してそうだ!そうだ!と乗っかってしまう人がいます。
 
自他の境界線が引けないのです。
 
誰かの真実があなたにとっての真実とは限らないし、
それは事実とは違います。
 
林檎を好きだと言った人が、それが本当の気持ちかどうかは、
本人にしか分かりません。
それがこちらからどう感じられようと、事実というのは、
林檎が好きだと言った事と、
理由は分からないけれども、沢山ある食べ物、果物の中から、
林檎というものに意識を向けているということ。
 
これは事実です。
 
こちらが分かるのはその事実からどうなのか?ということです。
この人は、林檎が好きだと主張したくなる様な何かしらの原因があって、
沢山の食べ物の中から、林檎をわざわざ選んだ原因があります。
 
この事実から私たちは、この人の内面がその部分だけ見えます。
何か言えるとしたら、この見えた部分についてだけです。
後は、妄想でしかありません。
 
また、「嘘だ」と言った人は、
どうしてもその人に対して反論したり、
非難したいという気持ちを持っています。
それから、いい人の様に思われる為には、
好きでもないことを好きだと言う様なことがあるのだと、
その人自身は思っているのです。
いい人の様に思われる為に、言葉で画策することがあるのだと、
その人自身は思っているのです。
 
私たちは、「嘘だ」と言った事実から、
この人の内面が見えてくるわけですが、
この場合は、相当晒しています。
丸見えですよね?
普段から嘘を吐いたり、画策したりしているから、
他の人もそうだと感じてしまう何かがあるのでしょう。
 
普段から嘘を吐くことがない人は、
誰かの言葉をそうなんだねと流してしまいます。
いちいち引っ掛かりません。
 
相手の言動をどうにかしようと考えていなければ、
相手が何を言おうとも、裏があるとも思いません。
 
こちらもないように、相手が何をしようと、
こちらには影響がないからです。
相手が何を言おうと、いい人だと思ったり、
思わなかったり、いちいち動じないのです。
 
つまり、嘘だと言う人は、
他人軸で、相手の言動に影響を受けているから、
自分も影響を与えようと、
言葉を選んで画策しているし、時には嘘を吐くのです。
 
例えば、今までの経験から、
林檎を好きだと言った人は皆、
嘘を吐いていて、実は嫌いだった。
だから、あいつも嘘に違いない。
経験したから分かるんだと、言うとします。
 
これは事実でしょうか?
例え何度も経験したとしても、
相手の気持ちは相手自身にしか分かりません。
 
ここで分かるのは、
林檎が好きだと言った事、
それは本当かもしれないし、
嘘かもしれないということです。
 
この曖昧である部分、
確認できない、事実ではない部分に、
白黒はっきりさせず、そのままにしておくことは、
出来ますか?
 
どうしても、どうしても、
いいや、絶対に嘘に違いないと、
思ってしまうでしょうか?
 
誰が問題を抱えているのか?
分かりますか?
投影しているのが分かるでしょうか?
 

 

自分の言動というのは注意しないといけません。

鏡を理解した人からは、筒抜けになるからです。
 
私はこう思うという時、
本当にそうなの?どうしてそうなの?と、
自問自答してみる。
 
こうに違いないと思った時、
本当にそうなの?それは絶対的な正解なの?
事実なの?と自問自答してみる。
 
自分の気持ちや考え、思い込み、
常識、全て疑ってみて下さい。
それはどこから来ているのかな?
 
こうやって内観することは、
マインドコントロールを解くことにも、
繋がるのです。
誰かの支配から抜けたいならまず、
自分を縛っているものを見つけて下さい。
 
あなたの支持する発信者を、
どうしてあなたは共感するのでしょうか?
例えばツイッターなどで、
自分のツイートにいつもいいねしてくれる、
リツイートしてくれる、リプしてくれるから、
好感を持っているといったことはないですか?
 
その行動を相手が取らなかったとしても、
気持ちは変わらないですか?
自分の望む行動を取らなかったらどうでしょうか?
自分の嫌いな人と仲良くしたらどうですか?
 
どうしてその人を支持したくなるのでしょうか?
支持するとどの様なメリットがあるのでしょうか?
 
 
よく、相手の立場に立って、考えてみるとか言いますよね。
これはどういう意味なんでしょうか?
 
相手の立場に立って考えてみれば、相手の事が分かる。
という解釈の場合、
事実ではないことが入っています。
 
相手の立場に立って考えるのは、自分です。
だから分かっているのは、相手の立場を想像した自分の気持ちですよね。
相手の気持ちが分かる訳ではないんですよ?
 
例えば発信者である私の立場に立って考えてみれば、
あなただって私の気持ちが分かるでしょう?
考えないから分からないんじゃない?
と言ったとします。
 
あなたは私の立場、発信者の立場に立って、
考えようとします。
 
分かりますかね?
 
あなたも同じ様に、ブログを開設して記事を書いたり、
私の立場を想像したりしても、
あなたに分かるのはあなたの気持ちであって、
あなたが経験してもいない様なことは分かりようもない訳です。
 
自他の境界線を引いて下さい。
 
どんなに想像したとしても、
相手の気持ちそのものなんて誰にも分かりませんよ。
 
こうやって、
俺の立場に立って考えてみれば俺の気持ちが分かるだろ?
とやる人は、
お前の気持ちは俺は分かっているんだ!と、
勝手にゲスパーします。
 
どうしてでしょうか?
 
自分の気持ちが分かっていないからですよ。
本当に自分の気持ちが分かっているのなら、
こんな複雑な気持ちを誰かが分かる訳ないなと思いますよ。
 
この気持ちが湧くまでには、
今まで積み重ねてきた様々な経験が、
その一瞬一瞬に含まれているのです。
 
私と全く同じ経験をしてきた人なんて、
この世界に一人もいないのだから、
私の気持ちをまるっとお見通しの人なんて、
存在する訳ないでしょう。
私の気持ちが分かるのは私だけです。
 
てかさ、お前に私の気持ちを分かってもらおう!なんて、
思いもしないんだけど。
 
考えていることを出来るだけ詳しく説明しようとは工夫しますけど、
それでも人によって捉え方、解釈、理解度は違いますから、
まるっきり同じ様に分かるとは思っていません。
だからこそ、言葉を変えて、また視点を変えて、
伝えようとしているのです。
 
ちょっと想像しただけで、分かるなんて、
どうしてそんな発想が出来るのでしょうか?
 
鏡、投影なので、
自分が誰かのことを想像した時に、
自分の気持ちなのにも関わらず、
相手の気持ちそのものだと断定してしまって、
分かったのだと思い込んでいるからです。
 
ほんのちょっとの言葉の表現、
捉え方の違いでも、
随分中身は違うということがあります。
 
何度もご紹介しています、
「宇宙の羅針盤・上」(辻麻里子著)には、観覧車の例えがあります。
 

たとえば、観覧車を例にあげますと、

手前側から見ている人はその観覧車は右まわりにまわっている

と言うかもしれませんが、

反対側から観覧車を見ている人は、

それは左まわりにまわっていると言うでしょう。

立ち位置が反対側の人には、
こちらの言葉がひっくり返ってしまうものなのです。
 
 
”相手の立場に立って、考えてみる”ということは、
もし自分が相手の立場になったら、どんな風に感じるかな?
と想像することであって、
相手の気持ちそのものが分かるということではありません。

想像しても、分かるのは、自分の気持ちなのです。

 

例えば、相手の立場に立って考えてみたら、

こういうことをされたら嫌だと思うから、

しないとします。

でも、相手が本当に嫌がるとは限りません。

もしかしたら、「別に全然気にしないよ!」と言うかもしれません。

それでも、自分だったら嫌だからしないと、

選択したことなのです。

 

これを、「お前が嫌だと思ったからしなかったのに!」と、

まるで相手の気持ちが分かっていて、

相手の為にやらないのだと言う様な人がいます。

エスパーなのかな?

 

例えば、相手の立場に立って考えてみたら、

こういうことをされたら嬉しいなと思うから、

するとします。

でも、相手が本当に喜ぶとは限りません。

もしかしたら、「気持ちは嬉しいのだけど、迷惑よ」

と言うかもしれません。

それでも、自分だったら嬉しいからすると、

選択したことなのです。

その責任は自分にあります。

喜ばない相手のせいではありません。

 

これを、「お前が喜ぶと思ったからやったのに!」と、

まるで相手の気持ちが分かっていて、

相手の為にやってあげたのだ!と言う様な人がいます。

エスパーですか?

 

俺の立場に立って考えてみれば俺の気持ちが分かるだろ?
分かりもしないなんて、洗脳されてるんじゃないの?
 
本当でしょうか?
お前の立場を想像したからといって、
お前の気持ちなんて分からないし、
お前に私の気持ちなんて分かる訳ないし、
分かって欲しくもないんだけど?
 
私はそう思います。
 
私は私独自の感じ方や考え方があって、
こうやってブログ記事などに説明していますけど、
その書いたことから、読んでいる人は、
その人の視点で理解はするでしょう。
でもそれが、そのまま私のことを理解したという訳ではないです。
 
同じ様に、私は誰かの文章や言っていることを、
自分の分かる範囲で理解はしますけど、
その人自身の事が分かる訳ではないですし、
例え想像したからといって、
自分も同じ気持ちになる訳ではありません。
 
それを鏡にして自分と向き合い、
様々な私自身の側面を見つけ出すだけなのです。
 
お互いがお互いの鏡であって、
分かるのはどこまでいっても自分自身でしかありません。
 
事実とは何でしょうか?
真実とは何でしょうか?
事実と妄想を分けて下さい。
確認できもしないことを事実の様に言うのは、
やめましょう。
自分の真実を他人に押し付けるのはやめましょう。
他人は他人の真実があるのです。
 
下記の説明がすごく好きなので、
「ウイングメーカー」(WingMakers LLC著)からご紹介します。
これはシッディについて書かれているので、
別の機会にまとめるかもしれないのですが、
事実や真実とは何かなという部分でも、
分かりやすい例だと思います。
 

アン ここで過度に宗教的にならないようにしたいのですが、
博士が話されていることは、イエス・キリストや
他の預言者が行ったことではありませんか…?
本質的には物体を創造することですよね?
つまり、水をワインに変えたり、病人を癒したりといったような。

博士 そうです。
実際に行う代わりに、同じ原理を述べただけです。
説明するよりも、やって見せたほうが
はるかに簡単なのですけれどね。

アン 今度は、博士は水をワインに変えることができると
おっしゃるおつもりですか?

博士 実際にやってみたことはありませんが、
答えはイエスです。

ラビリンス・グループのメンバー全員は、
LERMから物理的な物体を創造することができます。
これは実際フィフティーンが得た成果のひとつでした。
LERMを使って、自在に物理的な物体を創造する方法を
発見したのです。

アン 分かりました。俄然興味がわいてきました。
でも、ウイングメーカーと
エンシェント・アロー・プロジェクトの
話題から離れないと誓ったのに、ちょっと罪悪感を感じてしまいます。
ええと、それでは虚空から物体を
創造する方法を教えてくださいませんか?

博士 ええ、でも少し時間がかかりますよ。
多分、数週間かそこいら。

アン どうやるのか、ひとつ例を見せていただけないでしょうか?

博士 これはいかがでしょう?

アン この記録を後で読む方のために実況します!

アンダーソン博士は今、何もないところから麻糸の玉を
出現させました。
次に、同じようにいきなり麻玉を消しました。
今度は、もう一度それを出しました。
信じられないわ。
博士は玉を手で持っていません。
つまり、袖の中や手の後ろからそれを出し入れしている
手品師とは違います。
玉はまさに文字通り、テーブルの上で現れたり
消えたりしています。
このテーブルは、博士より一メートルほど前にあり、
私からは二メートルたらず離れています。
私からはテーブルの上で起きていることが
非常にはっきりと見えます。
私はその玉をつまみ上げています。
これは紛れもなく物理的な物体です…。
単なるマジックやホログラムではありません。
とてもありふれた麻糸の玉です。
重さといい、手触りといい。
触ってみると少し暖かいです。
どこから見ても、正真正銘普通の麻糸の玉です。
何か他の物を出すことはできませんか?
もっと複雑な、たとえば、現金で百万ドルとか?

博士 ええ。

アン やって見せてください。

博士 おわかりでしょうが、
こういう発見や能力から生まれる問題点があるのです。
私が今すぐ百万ドルの現金を出現させたら、
あなたはジレンマを抱えることになると思いますよ。
百万ドルをどうなさるおつもりですか?
私がそれをいとも簡単に出せるのと同じように、
簡単に消すのを見ることに耐えられますか?

アン できるんですか!?
博士に最初にお会いした瞬間から今まで、博士のおっしゃることが
信じられませんでした。
今でさえ博士を完全に信じているとも言えませんが、
私はものすごく信じそうになっています。
私は…いえ、人は一般に、実際に目で見る必要があるのです。
自分の目で見えるものを信じようとします。
というのはすべての感覚の中で、
視覚が一番現実としっかりと結びついているように思えるからです。
博士はついに、確実なもの…この目で見ることができるものを
見せてくださいました。
私は単に博士の能力をもう一度確認したいと
お願いしているだけなのです。
つまり、麻糸の玉はそんなに大したものだとは思えません…。
感銘を受けなかったというわけではありませんが。
ただ、博士が百万ドルの現金を出現させることができれば、
ともかくものすごいことなんです。

博士 ジレンマはどうなりますか?

アン わかりました。博士と取り引きしましょう。
私はこの話を世に出すために、少なくとも数か月間、
仕事を休まなければなりません。
そして、多分地下かどこかに移動する必要もあるでしょう。
二ヶ月間の私への援助費用として、一万ドルだけ出していただく
ということでどうでしょう?
これなら博士にとっても都合がよろしいのでは?

博士 わかりました。それでは、やってみましょう。

アン 私は今、完璧な複製に見える百ドル札の山を見ています。
私はそれにじかに触れています。
今度も少し暖かいです。
これは全く本物として通用します…。
うわぁ、信じられない!
でも、これは百万ドルあるわけじゃないですよね。
博士は一万ドルだけ現実化なさったのでしょう?

博士 ええ。いくらかお取りください。

アン 博士は、この記録を読む人々に対して
博士自身の信用を本当に損なってしまったことを
悟るべきです。
博士はご自分を信じられない存在にしてしまいました。
私は、この部分を公表する記録に
含めるべきかどうか迷います。
きっと誰も信じないでしょうから。
この部分を入れると、引き換えに、
この対談の他のすべての箇所でも博士の信用を
傷つけてしまうでしょう。
これは、自分自身の目で見ない限り
絶対に信じられない経験です。
私はどうしたらいいのでしょう?

博士 アン、私を信じるかどうかは重要ではないのです。
誰も自分で経験しない限り、何も信じません。
たとえ経験したとしても、大半の人々は疑いへと後退します。
信念は短命で、いつも疑問形です。
そうしてそうあるべきです。
最も敬虔な信者でさえも、多くの時間を疑念の中で
過ごします。
彼らが何を言っているかに関わらず。
ですから、これが私の信用を損ねるのでは
ということは心配しないでください。
私は構いません。
私は誰も、何も説得するつもりはないので、
問題はないのです。
私は、何が真実で何を信じることができるのかを、
自分で決定することができる人々に、
ウイングメーカーについての情報を伝えようとしているだけです。

 
実際に目にしたことは事実なので、
信じられるのだけれども、
それでもそれが過ぎ去ってしまうと、
これは本当かな?と疑いの気持ちが湧きます。
 
これは本当のことですと相手に伝える為には、
事実を見せるしかないのだけど、
それを信じるか信じないかは相手が決めることです。
上記の場合だと、何かトリックがあるのではないかと、
目の前で見ても信じない人は信じないと思います。
 
これは本当にそうだと信じられるのは、
確信を持ったことだけで、
経験して結果が出たから、
納得出来ることです。
 
それについて他人を無理に信じさせることは出来ないし、
信じてもらう必要もないのです。
 
”何が真実で何を信じることができるのかを、
自分で決定することができる”
とありますが、
自分で決めるという部分が大事なところなのです。
 
何度もお伝えしている様に、
宇宙法則には原因と結果の法則があります。
自分の選択に従って結果が返るのです。
だから、自分で自覚して決める必要があります。
 
相手の立場に立って考えてみて、

自分だったら嫌だからやらない時、

相手は別に嫌じゃないよと言うかもしれません。
でも、それをして自分に返ってきた時に嫌なことになるんだから、
やらなくていいのです。

 

相手の立場に立って考えてみて、

自分だったら嬉しいからやる時、
相手は迷惑だと言うかもしれません。
相手が嫌がるのなら、勿論やめるのだけど、

それがブーメランとして返って来ても、

自分は困りませんよね?
責任は取れるから、選択したんですよね?
 
相手の気持ちは本当には分からないのだから、
自分と同じ様な気持ちになるとは限りません。
それでも選択した結果は自分に返ってきますから、
自分と同じ様に相手にも接するのです。
でもそれをどう受け止めるのかは、
相手自身の問題だから、こう感じなさいとは強要しない。
分け隔てをせず、自分と同じ様に相手も大事にするけれども、
自他の境界線は引くのです。