中国語が話せる中国事情に詳しい人物といえは「石平」さん!



 その頭脳明晰な石平さん(62)は、国籍も心情も曖昧な3番目(都知事選)の蓮舫とは違うし


 小池百合子都知事のように学歴詐称もなく、北京大学哲学部卒業の堅い帰化人


 故国を追われ命からがら亡命した後も、中国に対して歯に衣着せない辛口の評論活動をして


 たくさん中国関連の本を書き、講演会を開き、ユーチューブで中国の分析も語ってくれる


 その一方では、日本庭園など日本らしい風景写真を撮るのを趣味にしているらしい。


 そんな石平さんは、先日の蘇州日本人母子刺傷、中国人添乗員死亡事件を取り上げ、日本人に警告する


 中国🇨🇳政府は、現地の日本人の安全などどうなっても構わないという考え方だから、日本人の中国駐在員とその家族、特に女性や子供たちが危ない


 それどころか本音は、中国社会の不満のはけ口として、日本人が嫌悪され襲撃されるのを容認し陰では煽ってさえいる。


 中国は経済破綻寸前の苦境にあえいでいるので、共産党政府は自分たちの全ての過ちや罪を外国に着せて


 外国人を排斥する第二の義和団の乱が起こる!かも知れないと石平さんは言う。


 外国企業の中国投資は減り続け、日本やアメリカに引き揚げるか、ベトナムや東南アジアなどへ工場を移している


 それが怖いから、今回の蘇州事件でも一言も「日本人」や「日本」という言葉は使わず


 死んだ中国人女性は農村出身の貧しい普通の中国人なのに、新聞は遺族が寄付を断わったと書いたのは不自然


 だから石平さんは、中国政府が事件が話題にならないように


 遺族の記者会見もなく、無理に寄付を断わらせて必死に火消しに走ったのではないか?と推測する。


 そして、日本のマスコミも取材に動いたはずなのに、犯人の動機や素性どころか名前さえ公表されない


 中国外務省が発表は、死んたのが日本人学校のスクールバスの添乗員なのに


 まるで通りがかりの勇気ある中国人女性が運悪く事件に偶然巻き込まれたかの様に印象操作。


 はじめに、スクールバスで帰って来る家族を出迎えようとした、日本人母子が切りつけられたのも隠し


 開いたバス乗降口から犯人が、日本人の子供を狙ってバスに乗ろうとしたのを


 中国人添乗員が阻止した為に、滅多刺しされて重傷を負い、転送先の病院で4日後に亡くなった


 蘇州で日本人が襲われたのは今度で2回目なのに、中国政府は2011年7月温州市の脱線事故で高速列車を埋めたように、あるいは1989年の63天安門事件のように


 情報を統制管理して抑え、全てなかったことにして隠蔽するつもりらしい。


 これでは、また日本と日本人が貶められ、傷つけでも良い対象とおおやけに認定したようなものです。(;_;)















 また、ちいさな記事ですが、福島で会津ラーメンを売りにしているラーメン店に中国本土から


 イタズラや苦情電話が殺到し、電話が使えなくなり困っている


 電話線をしばらく抜いても繋ぐと前と同じように電話が鳴りっぱなしなるという迷惑事件


 もちろん福島の本家の電力会社や原発には去年、中国が汚染水と呼ぶ処理水を放出した直後から、中国から苦情電話が殺到している


 なかには福島の観光施設や山形県の旅館、東北や関東など日本中に中国から迷惑電話がかかる


 結局、無学な中国人たちにとっては、ただの憂さ晴らし電話だから、国が認める悪い国の人間に


 怒鳴ったり罵声を投げつけられれば、日本人なら相手が無関係でも何でもよい、という軽い気持ちで迷惑電話をしているらしい。



 先日の上海在住の迷惑系SNS微信(ウェイボート)チューバー等による靖国神社侮辱事件


 また、日本政府の度重なる交渉に眼かかわらず、中国政府は汚染水放出を盾にとり、日本産魚介類の輸入を頑なに認めようとはしない


 だから、いまだに日本人ヘイトが広がり続け、元々昔の残虐な通州事件のように、日本や日本人を傷つけてもよいという、愛国無罪の風潮もあって


 中国経済の悪化と共に不満のはけ口が、日本と中国にいる日本人に向かっているらしい


 それは、バス襲撃でも靖国事件でもSNS微信が、「よくやった」という称賛のコメントで溢れたことでもよく分かる


 中国は日本や台湾、フィリピンなどへの度重なる嫌がらせから、いつ一歩踏み込むか分からない危険な状態にあるのかもしれない?。




 石平(せき へい、出生名:石平、シー・ピン、拼音: Shí Píng1962年昭和37年〉1月30日- )は、日本の国際問題評論家

石平
せきへい(シー・ピン)
誕生1962年1月30日 中華人民共和国 四川省成都市
職業作家評論家
言語中国語
日本語
国籍日本
教育北京大学哲学
(1980年9月 - 1984年7月)
最終学歴北京大学哲学