二代目桂ざこばさんは、もとは桂朝丸という芸名だった。
貧しい母子家庭で育ち、まともに学校に通わず家計を助けて働き、中卒で桂米朝さんに入門したせいか
単純で短気な性格が災いして、しくじりが絶えなかったので心機一転を図る意味で
忘れられて放置されていた一門の名跡をさがし出して「二代目桂ざこば」に改名。
朝丸時代は喜怒哀楽の激しい分かりやすいテレビタレントとして活躍したが
改名後は古典落語にも力を入れていた。
当時盛んだった漫才とは逆に、絶えかけていた落語を復興させた偉大な師匠
桂米朝さんには到底及ぶべくもなかったけれど
その単純な人柄が世間に愛された落語界の重鎮だった
だから、享年76歳は早すぎる。
「夏帽子忘れ得ぬ事またひとつ」
「去る人に想いを寄せて夏の雲」
二代目 桂 ざこば(かつら ざこば、1947年〈昭和22年〉9月21日[1][2] - 2024年〈令和6年〉6月12日)は、上方の落語家、タレント。本名∶関口 弘[1]。大阪府大阪市西成区出身。米朝事務所所属。上方落語協会相談役。出囃子は「御船」。
小学校2年生の時、両親が離婚し父親に引き取られる。
ざこばの著書によると、父は大阪府警察の元職員で、離婚後は二人で旅館暮らしをしていたが、ある日失踪して鉄道自殺した。
その後は母・姉との3人暮らしとなる。出生時の姓は父の「小島」で、前記の経緯で母の実家の姓である「関口」となる。
日本橋中学校在学中は、各種アルバイト(新聞配達、靴磨き、アイスクリーム売りなど)をして家計を助けたが、その結果次第に登校しなくなる。
学校をさぼって千日劇場に行った際、三代目桂米朝が「浮世床」を演じるのを見て即座に弟子入り志願する。
当初米朝は「学校をサボるような子は噺家にはなれん」と突き放したが、それから何日も米朝の元に通い詰めた。
あるとき、米朝宅に呼ばれて「落語ができるか」と問われ、うろ覚えで我流の「浮世床」を少し話すと、傍にいた桂小米(のちの二代目桂枝雀)が「師匠、彼を(弟子に)とりましょう!」と口添えしたという。