気に入っていた白いポロシャツ畳の上に脱いでおいたら、お腹の部分にお湯で薄めたコーヒーをこぼしてしまった。

 面積は大きいが色が薄いので洗濯すれば簡単に落ちるだろうと思っていたら、洗濯しても点々と薄い茶色が残っていてちっとも落ちていない。

 教訓?、きれいな白いものほど少しでも汚点があると、どんなに薄くても目立つものだと思い知れぇ、今度からは買わないぞ!。

樹木希林スタパ記念

 6月11日のNHK総合「スタジオパークからこんにちは」のゲストは樹木希林さん

 人の好いおばさんのようなドラマやCMのイメージとは違い、相変わらず頭が良すぎて変わった人です。

 無表情のまま自分の人生を実につまらなそうに語っていましたが、娘の話が出たときだけは母にもどり表情が緩んだのが印象的だった。

 お婆ちゃん役が上手いと言う質問では、老け役や叔母ちゃん役が得意だったのではなく、皆さんがやりたくない役が、残っていたので仕方なくやっただけですと冷静な返事。

 「悠木千帆」からの改名は、テレビ朝日の局名改正記念番組のチャリティーで何か出せと言われたが、何もないので名前を売ると言った。希林さんにすれば軽い洒落のつもりだったのかもしれない。

 だから、名前を買う方も戸惑って会場で2万円ということになったが電話でも2万円でかち合い、結局2万円プラス2000円という安値で落札された。

 ウイキペディアによれば、名前を落札したのは希林さんの知人で、落札後は売って欲しいと言う話がたくさん来たがずっと使わずに持ち続けていた。最近、その知人が若手女優に無償で譲り、その女優が「2代目悠木千帆」が活躍しているという。

2代目悠木千帆

 その後、新しい名前をつけなくてはなくなり、名前なんか何でもよいが繰り返しが好きなので、樹木希林とつけたと言っていました。

 でも、希林さんは熱心な法華経徒で、「希心会」という教団の信徒なので芸名はこの希心会の「希」の字を頂いたものらしい。

 自分の名前にさえこだわらない希林さんは、以前目の手術後「徹子の部屋」にテレビに出たときもずいぶん前から片目が見えず、もう片方も視力が低下していたのに誰にも話さず仕事を続け、舞台や台本を読むのも大変だったはずなのに「そんなこと、何の問題はないですよ」と普通に話していましたっけ。

 夫の内田裕也さんは変なことばかりするが、若い頃はそれが面白かったんでしょうと言う。

 ところが、結婚すると毎晩二人で朝まで眠らないで大声で物を投げる大喧嘩、仕事に行くときにはフラフラ。

 マンションの下の階の人が耐えかねてマンションを売って引っ越したほど激しかった。

樹木希林スタパ出演

 これではやっていけないと娘を妊娠していたのに別居。ただし、内田裕也を妊娠の経緯を説明して説得、自分の子供であるという確認書類をしっかり取ったという、認知させた・・・のかな?。

 別居しても裕也さんとは会うたびに周りの人が驚くような大喧嘩をしていた。仕切る人が二人もいたんではまとまらないと自嘲的に話す。

 近年、希林さんが病気(癌?)で入院したら、すぐに裕也さんが大きな花を持って見舞いに駆けつけたので、決して自分の事をおろそかに思っている訳ではないなと感じ、それからは「添ってみる」ということを覚えた。

 いつも一緒に旅行に出かけるときは希林さんは小さなバッグひとつなのに、裕也さんはいったい何ヶ月旅行するんだと思うほど大きなバッグをたくさん持って行く。

 裕也さんの言うことに逆らわず、無理をするわけでもなく相手の考えに自分もあわせて話す。すると、喧嘩にならないばかりか、裕也さんのほうから俺は頭が悪いのかな、お前はバッグひとつなのにと言い出した。

樹木希林色紙

 今は喧嘩もなくなり、裕也さんから電話やファックスが来て、行き来するようになったという。

 裕也さんのファックスは最初の文字を見て「バカヤロー」と怒った言葉だったら後回しにして、精神状態のよい時に読む。機嫌のよい「ディア」だったらすぐに読む。

 「まあ、あの人のことだから電話でも何だかよく分からない」だから適当な返事をしている、「そんなものでいいんですよ」と少し微笑んで話していました。

 希林さんは法華信者なので、「添う」というのは相手を議論で説き伏せる「折伏」(シャクブク)の対称で、相手の意見に逆らわず意見が変わるのを待つ「摂授」(ショウジュ)ではないだろうか。

 精神科やカウンセリングでは「ラポール」という心のつながり、信頼関係の構築を重視する。

 カウンセリングの基本は相手の言う事をすべて受け入れる「受容」、「共感」、「傾聴」で、こちらの意見は言わずに相手を自然に導いて悟らせる。

 芝居には妥協せず共演者に厳しかった希林さんは以前のような覇気がない、目も完全ではないようだ。

 若い頃からお婆ちゃん役が得意の希林さんでしたがよく考えれば今年で65歳、もう年寄りを演ずる必要のない年齢で少し優しくなったということでしょうか。

 CMや映画の樹林さんは生き生きとしていますが普段は大人しく、大変なことさえ淡々とした語るので本当は人前が苦手なのかもしれない。


◆寺内貫太郎一家「さめちゃう!」


「スタジオパークからこんにちは」
2008年6月11日(水)のゲスト
 樹木希林
 1943年、東京都生まれ。文学座付属演劇研究所、第1期生。1964年、テレビドラマ「七人の孫」(TBS)に出演し話題になる。70年年代には「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」(TBS)などに出演し、人気を不動のものとする。
 その後も独特の雰囲気を持つ個性派俳優として、映画、ドラマ、CMなど様々な分野で活躍。
 最近では、映画「東京タワー、オカンとボクと、時々、オトン」で、第31回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。
 NHKでも、ドラマ「夢千代日記」、連続テレビ小説「はね駒」、大河ドラマ「翔ぶが如く」「葵 徳川三代」、「大希林」(教育テレビ)、NHKスペシャル「病の起源」など出演多数。
(NHK HPから)


「樹木希林」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 樹木 希林(きき きりん、1943年1月15日 - )は、日本の女優。本名、内田 啓子(うちだ けいこ)。旧芸名は悠木 千帆(ゆうき ちほ、但し、初代)。

 東京出身。文学座在籍時に岸田森と結婚するが、後に離婚。その後、内田裕也(ロック歌手)と再婚し、間に娘・内田也哉子(エッセイスト、本木雅弘夫人)がいる。夫の内田とは長期間別居中だが、FAXで連絡を取り合っているとのこと。

 実父は薩摩琵琶奏者。1961年に文学座に入り、悠木千帆の名で女優活動をスタート。テレビドラマ『七人の孫』にレギュラー出演し、一躍人気を獲得。1966年に文学座を退団した後も、個性派女優として多くのドラマ、映画、舞台に出演。20代の頃から老人の役を演じ、出演するドラマ、映画などでは老け役が当たり役だった。

 1974年にTBSで放送されたドラマ『寺内貫太郎一家』で、主役の貫太郎(小林亜星)の実母を演じる(実際には小林より10歳以上若い。若い手を隠す為、劇中は手袋を外さなかった)。寺内家がドタバタ騒ぎになった際に、沢田研二のポスターを眺めて「ジュリーィィィ!!」と腰を振りながら悶えるシーンで脚光を浴びる。

 1977年、日本教育テレビ(NETテレビ)からテレビ朝日への会社名称変更時に放送された特別番組『わが家の友達10チャンネル』の中のオークションコーナーで、売る物が無いという事で自身の芸名「悠木千帆」を競売にかけた。名前は2万2千円で世田谷の飲食店店主に売却され、その後樹木希林に改名。ちなみに売却された旧名は2004年にある女優に譲渡された(悠木千帆 (2代目)を参照)。

 熱心な法華経徒であることも有名で、希心会という教団の信徒である。現在の芸名はこの希心会の希の一字を頂いたものとされている。

 ドラマ『ムー』『ムー一族』で共演した郷ひろみとのデュエットで、『お化けのロック』『林檎殺人事件』をリリース、大ヒットした。

 現在も女優活動を続け、温和な雰囲気の人柄と演技力の高さで人気が高く、ピップエレキバンのCMでの横矢勲ピップフジモト元会長との掛け合いは人気を集めた。フジカラーのCMに「綾小路さゆり」の役名で25年以上出演し続け、2002年には消費者の好感度が最も高い女性CMタレント1位に輝いた。お茶目な性格から若手芸能人からの人気も高い。国分佐智子はラブリーであると発言、木村拓哉は演技派女優と尊敬、ドラマや映画では独特の存在感で画面を引き締め、締まりのある演出効果を醸し出させる個性派女優である。

 おっとりした風貌に反して演技に関しては非常に厳しく、共演した若手女優が泣き出す事もあったという。音を上げなかった女優の一人である江角マキコはその事を後に褒められた。

 2003年1月、網膜剥離で左目を失明。2004年1月末に明らかにされる。「今まで色々な物が見え過ぎた」と達観したコメントを発表し、治療を受けなかったことで話題になった。しかしその後生活を改善して少しずつ見えるようになったという。

 2005年1月、乳癌が判明し摘出手術を受けたが無事復帰した。

 2007年には、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2007」に二人の孫と共に出演し、「イマジン」の日本語訳歌詞などを朗読した。


「寺内貫太郎一家」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 寺内貫太郎一家(てらうちかんたろういっか)は、1974年にTBS系列の水曜劇場枠で放送され、平均視聴率31.3%を記録した人気テレビドラマ
 昭和の東京下町、石屋を営む一家とそれを取り巻く人々との人情味溢れる毎日を、コメディータッチで描いた。向田邦子脚本、久世光彦プロデュース、小林亜星主演。 

 東京・下町(谷中)で三代続く石屋「寺内石材店(石貫)」の主人・寺内貫太郎を中心とし、家族や近隣の人との触れ合いを描いたホームドラマ。家族に手をあげ、何か気に入らないことがあるとすぐちゃぶ台をひっくりかえすような、頑固で短気で喧嘩っぱやいが、どことなく憎めずむしろ共感してしまう昔ながらの下町の親父を小林亜星が好演している。
 一貫してコメディーであるものの、その中に「死」や「孤独」、「老い」といったテーマ、家族の生活の中に潜む「闇」の部分も描かれており、単なるコメディーでは終わらない。

 ドラマなのになぜかレシピが出たり、お決まりの会話が飛び交うユーモアたっぷりの食事シーンや、貫太郎と長男の周平(西城秀樹)との大喧嘩(西城はこのシーンの撮影で実際に腕を骨折して入院)、きん(悠木千帆)婆さんが沢田研二のポスターを見て身悶えしながら「ジュ~リ~」と叫ぶシーンなどが話題になった。また、職人のタメとイワが石を削りながら掛け合うシーンも見どころ。

 平成になってからも、主な出演者が『東京電話』(東京通信ネットワーク)のCMに起用されたり、舞台で公演されたり、新たにTVドラマスペシャルも3本作られており、その人気の根強さがうかがえる。
 また、寺内貫太郎の役柄そのままに小林亜星が全優石のCMに起用された。


悠木千帆 (2代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ゆうき ちほ 2代目 悠木 千帆 プロフィール
別名:山田 和葉(旧芸名及び本名)
生年月日:1974年8月4日、現年齢:33歳
出身地 日本・愛知県名古屋市、血液型 O
活動ジャンル:女優、モデル

 悠木 千帆(ゆうき ちほ、1974年8月4日 - )は日本の女優。愛知県出身。本名及び旧芸名は山田 和葉。高瀬プロダクション所属。初代『悠木千帆』である樹木希林とは血縁関係はない。

・プロフィール
 デビュー当時は本名の山田和葉という名前で活躍をしていたが、2時間ドラマのエキストラなど下積みの時期を過ごしていた。
 1977年、芸名『悠木千帆』が初代の本人(樹木希林)より番組のオークションコーナーに出品され、樹木の知人が落札。その後、落札者の元に『悠木千帆』の譲渡を迫る依頼が殺到したものの、頑として譲渡を拒み続けていた。
 その名前が27年の歳月をかけて山田に譲渡される事となった。譲渡の際は無償で芸名を譲り受けたそうで、「ただで譲るわけだから、それなりにしっかり頑張りなさい。」と励まされたとの事。
 その後はドラマや舞台など、いくつもの仕事が舞い込むようになり、今後の活躍が期待されている。


「ラポール」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ラポール (rapport) とは臨床心理学の用語で、セラピストとクライエントとの間の心的状態を表す。

 もとは、オーストリアの精神科医フランツ・アントン・メスメルが「動物磁気」に感応したクライエントとの間に生じた関係を表現するために用いた語である。その後、セラピストとクライエントの間に、相互を信頼し合い、安心して自由に振る舞ったり感情の交流を行える関係が成立している状態を表す語として用いられるようになった。

 カウンセリングや心理療法をどのような立場から行う場合であっても、ラポールは共通した基本的な前提条件として重視されている。