父が今年の4月に喜寿を迎える。

自分の人生も曲がり角を過ぎると、父の生き方と自分の生き方を照らし合わせるようになる。

父は東京郊外の裕福な家に生まれ、成蹊高校から東工大に進んだ、頭も良く育ちもいいボンボンだった。

しかし、人生は堅実そのもので、ブランド品などに全く興味を示さない人であったし、今現在もそうである。

私立大学に進んだ3人の子供を育てマイホームも持ったが、ローンは一切組まず、堅実に家庭を守ってきた。

翻って自分はどうだろうか。

未だに独身であるし、結婚できたとしても金銭的に一杯一杯で子供は難しいかもしれない。

マイホームなんてとても手が出ない。

かつて父に「凄いね」と言ったら、「時代が良かっただけさ」と謙遜していたが、決してそれだけではないのを知っている。

もはや、父のなしてきたこととは、遠いところに来てしまったが、少しでも父に近づきたいという気持ちはある。

これから先、自分の力でどこまでできるかわからないが、良いお手本がこんなに身近にあるのだから、頑張っていきたい。

そろそろ兄妹で喜寿に贈るプレゼントを相談する事になるが、多分父は要らないと言うだろう。

そういう人なのだ。

今日、朝電車に乗った。それ程混んでいない車両で大体座れる。

自分が座席に座ったあと、隣に男性が座った。その男性は大きめのカバンを持っていたが、床に置きもせず、網棚に置くでもなく膝の上に載せた。

隣に座っている僕の太腿に、容赦無くカバンの角が当たる。その時点でかなり不快。

しばらくして空気を察したか、その男性はカバンを置きなおしたが、それから、聞こえよがしに舌打ちを何度もしたり、「うっとおしいなぁ」とか言葉に出したりする。不快度マックス。

やがて正面の席が広く空いたので、その男性は席を移ったが、空いている座席の真ん中にどかっと座り、今度はカバンをシートの上に置いた。

もう死ねよ。氏ね、じゃなくて死ね。

僕が電車を降りるときも、また舌打ちしてた。

この間、高速道路で因縁つけて車停めさせて、死亡事故引き起こした男性がいたが、日本の民度は低くなっていると思う。


今日の教訓は、自分は普通にしていても、いきなり喧嘩をふっかけてれることもあり得るという事だ。気をつけて、身を小さくして生きていかねば。

久しぶりの記事がこんなので残念。
最近、ちょっと買い物したこともあり、将来について考えてみた。

仕事を頑張って60歳まで働けたとして、80歳まで生きるとする。一年間に200万で生活しても4000万必要である。

そんな貯金はない。

IT業界の特定派遣なので、60歳まで働けるという仮定もあやしい。

年金はきちんと払っているが、破綻して年金では生活していくことはできないだろう。

迫り来る老後に備えてどうすれば良いのだろうか。

貯金といっても今の給与ではできる額が知れている。毎日の労働に耐え、欲しいものも買えないのでは、何のために生きているのかが分からなくなりそうだ。

ただ「生きる」ための人生に意味があるのだろうか。
スポンジだけのケーキを食べ続けることに、喜びはあるのだろうか。

考えれば考えるほど、「詰んでいる」自分に気づく。

考えるのが嫌になるが、向き合わない訳にはいかない。

自暴自棄になっても仕方ないから、建設的に考えなければならない。

病気をしたこともあり、これまで精一杯やってきたけど、それだけでは駄目だったということだ。

今からでも出来ることを考えなければ。

ライフプランナーに相談したい。