熱い思いは岩をも砕く | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

 

8月27日 今日はヨハネ20:1以降を扱います。

 

イエスは墓に横たえられ、それからしばらく時が経過します。「殺されてから三日目によみがえる」、あるいは、マタイ12:40にあるような「地の心に三日三晩いる」という表現がありますが、実際に死んでいたのは36時間ほどであり、これは一日半にしかなりません。しかし、これが聖書預言の時間の計算を意味ありげにしている点でもあるのです。確かにイエスは、ニサンの14日に殺され、16日によみがえりますので、三日目なのであり、「地の心」を「闇の権威の時」に合わせれば、確かにそこに三日三晩いたことになります。そうした視点で他の預言も見て行くと、今まで見えなかったものがぼんやりと見えてくるでしょう。

ちなみに、啓示11:9,11では「二人の証人」が野獣に殺されてからよみがえるまで「三日半」かかるとあります。この部分を物見の塔出版の「啓示の書」の書籍で見ると、「文字通りの84時間を表わすのではなく、実際の三時半の活動と比べて、ごく短い期間であることを強調するために、9節と11節で2回扱われている」とあり、自分たちの教えと矛盾したずいぶんと気まぐれな解釈を採用していることが分かります。しかしこれは、「弟子は師より上ではない」という原則を当てはめれば、「半」が意味する時間は文字通りであることが分かるでしょう。

 

それで、「週の最初の日」とはニサン16日であることが分かりますが、マリア・マグダレネは、朝早くまだ暗いうちに記念の墓に来ます。実際にはこの時、マグダレネと一緒にヤコブとヨセの母マリア、ゼベダイの子らの母サロメ、ヘロデ家の管理人クーザの妻ヨハンナ、その他などがいたかもしれませんが、4福音書の記述を比べると食い違いがあってまとまりがなかなか付きません。ただ興味深いのは、ヨハネはこの時、み使いの姿があったとは記していない点です。したがって、マグダレネはだれよりも早く墓に到着してその異変に気づき、それをすぐさまペテロとヨハネに報告しに行ったのでしょう。実際彼女は「み使い」ではなく、「人々が主を記念の墓から取り去ってしまい」と語っています。その後、ぞくぞくと他の女たちも到着しますが、そこで初めてみ使いと遭遇します。マルコの記述ではその後、彼女たちは記念の墓から逃げるようにして走り、恐れに満たされていたため、「だれにも、何も話さなかった」と記されているので、ほとんどの女はそのままそれぞれの宿に帰ったのでしょう。

一方、ペテロとヨハネはマグダレネの報告を受けて墓に来ますが、イエスどころかみ使いにさえ会えません。つまり、これは意図的なものであり、裏切りの件で心がズタズタになっている彼らに更なる衝撃を与えないように、またその件を軽く見ないよう戒めのためにも、女たちを通して、ご自分の復活の事実を彼らに伝えようとしているのでしょう。

 

マグダレネはまだ暗い時間帯にもかかわらず、ひとりで堂々と恐れもなく洞穴の中に入ってイエスの存在を確認しようとしますが、これに比べて20:3~10に記されているペテロとヨハネの行動は情けない感じです。特にこの時のヨハネは、一緒に走りだしますが、ペテロより速く走って現場に到着したところまではよかったのですが、怖くて中に入ることができません。洞穴の外からも中にまき布が見えたことから、辺りはすでに明るかったのでしょう。それでも怖かったのです。その背後には彼の慎重な特質が関係しているでしょう。と同時に、イエスに対する自責の念がだれよりも強力だったことも関係しているでしょう。

そこでペテロの方は、「おいおい何もたもたやってんだ!」と言わんばかりに中に入って現状を確認しますが、巻き布が綺麗に巻いてあって、頭にのせてあった布は別にして巻いて並べて置いてあるのを見ます。その後ヨハネも「それを見て信じた」とあるので、この墓の元々の所有者が、イエスの遺体を別の場所に移送したのだろうと彼らは解釈していたのかもしれません。こうしてヨハネは、かつて自分はどれほど信仰もなく情けない人間だったのかを記すことによって、神の霊を高め、自分より立派に行動していたマグダレネに祝福があったことを伝えたかったのでしょう。

 

それで11節以降はマグダレネの独擅場となります。二人の使徒たちが早々に立ち去った後も、彼女は記念の墓の近くにとどまり続け、立ったまま泣いていました。それでも諦めきれない彼女は、泣きながら墓の中をのぞこうとして前方にかがむと、なんと、白衣を着た二人のみ使いが、ひとりはイエスの体があった頭のところ、もう一人は足のところに座っているではありませんか。しかもマグダレネに話しかけてこう言います。「婦人よ、なぜ泣いているのですか」。

そこで彼女は、「人々が私の主を取り去ってしまい、どこに置いたのか分からないのです」と答えますが、そのあと背後に人の気配を感じて振り返ると、何と、イエスの立っておられるのが目にとまりますが、彼女はそれがイエスであることを悟りませんでした。そこでイエスも、「婦人よ、なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」と白々しく質問します。彼女はそれが園丁であると思って、「だんな様、もしあなたが主を運び去ったのでしたら、どこに置いたのかおっしゃってください。私が引き取りますから」と返すと、イエスは彼女に「マリア!」と呼びかけられ、彼女は向き直ると、ヘブライ語で「ラボニ!」と反応します。こうしてマグダレネは、二人のみ使いのみならず、イエスにも直に再会した第一号となる祝福を得たのです。したがってマタイ28:9にある記述は、マグダレネの体験が短絡的に誤挿入された可能性もあります。