全ては虚しい! | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

 

6月18日 今日はヨハネ18:15以降を扱います。

 

イエスが捕縛された後、シモン・ペテロともう一人の弟子つまりヨハネは、イエスのあとに付いて行きます。といっても、11人の弟子たちはみな逃げましたが、イエスが言われた通り、捕縛隊は彼らを追って捕まえることまではしなかったようです。それで、エルサレムとは反対方向に散り散りになって逃げている最中に頃合いを見計らって振り返り、キデロンの谷の向こう側に帰ってゆくのが見えるたいまつ群を目印に、この二人だけは捕縛隊を用心深く追跡したのでしょう。

興味深いことに15節後半には、ヨハネが大祭司に知られており、そのゆえにその家の中庭にすんなり入ることができた様子が書かれています。イエスの母マリアとヨハネの母サロメは、聖句に基づいて実の姉妹だとされていますので、ルカ1:5で「アロンの娘」とされている祭司ゼカリヤの妻エリサベツの親族で間違いありません。したがってヨハネの方は、アロンの血を引く大祭司の家系で繋がっていることになります。またヨハネは、従業員を雇用している水産会社の息子なので、親族のつてで大祭司との優先的取引もあったのかもしれません。

 

そのようなわけで、ペテロの方は外で戸口のところに立っていることしかできませんでしたが、ヨハネが気をきかして戸口番に話したため、ペテロを中に招き入れることができたようです。

ところが17節にある通り、その戸口番である下女がその際に、「あなたもこの人の弟子の一人ではないでしょうね」とペテロに言い、ペテロはすかさず「違います」と答えます。しかし彼女がこう言ったのは単なる推察からではありませんでした。他の福音書にある通り、多くの人が、以前ペテロがイエスと一緒にいる場面に遭遇していたからなのです。それもそのはずでしょう。イエスはこれまで何度もエルサレムを訪れており、いつも目立っていたわけですが、そのそばにはペテロも弟子として付いており、それなりに目立っていたはずだからです。では、なぜヨハネには目がいかなかったのでしょう? それは、彼らの目が糊付けされていて、部分的に無感覚にされていたからでしょう。それがあったからこそ、ペテロが中庭に入ることができ、それによって三度の否認の名場面が成立し得たからです。

 

さて、18節にある通り、奴隷や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、まわりに立って身を暖めており、ペテロも彼らと一緒に立っていたとあります。ところがヨハネは、ここで場面をアンナスの家に引き戻しています。それはなぜでしょう? 家の外でのことは、記憶に基づいて記すこともできますが、中でのことは、当時の使徒たちには分りません。したがって、中でのやり取りは、後にクリスチャンになったニコデモやアリマタヤのヨセフからの証言に基づいて記されている部分もあることでしょう。しかし、黒幕の体制に反抗的な分子がサンヘドリンに中にいたなら、彼らはアンナスのところへは招集されなかったかも知れません。おそらく彼らは、最初の取り調べが行われたアンナスのところへは呼ばれず、大祭司のところから呼ばれていたのでしょう。したがってヨハネは、アンナスの家で起きたやり取りの場面を霊によって与えられたのでしょう。

とはいえ、別段、何も変わった取り調べなどありませんでした。大祭司の家での取り調べと同じです。それは、取り調べというよりも、本当の目的は、動物としての威厳ランクを関係者たちに知らしめるためだったからです。宿敵を確保した手柄、その最高権力者が自分であることを、アンナスは敵の目にも見せつけたかったからでしょう。神の子と悪魔の子、二大役者がその場にそろっていたのです。

 

しかし、結果としては、逆に部下たちの前で自分がイエスに辱められることになります。イエスが言われた通り、イエスは秘かに神の教えを語ることはありませんでした。公に会堂や神殿など目立つ場所で、いつも堂々と教えられたのです。彼の下役たちはその情報を逐一アンナスに報告していたはずであり、したがって彼は、すでに知っていることをまた質問している「バカ殿様」であることが暴露されてしまいます。そこでやばい空気を察知した一人の下役はアンナスに忖度し、まずイエスの顔に平手打ちを加えることで彼の立場を強制的に低め、続いて「祭司長に向かってそんな答え方をするのか」と言うことによって、アンナスの立場を盛り上げようとします。

そこでイエスも黙ってはいません。「私の話したことが間違いであるなら、その間違いについて証ししなさい。しかし、正しいのであれば、なぜ私を打つのですか」と言われます。確かに彼も間違いについて語ったわけではありませんでした。「そんな答え方」と言った通り、言い方に問題が・・・・つまりどちらが偉いかという問題を提起したつもりだったのですが、イエスにしてみれば、「それを言うならこちらは神の子なんですが・・・」というわけで、「信じるか信じないかはあなた次第です」というわけです。

 

それにしても、ヨハネはこの聖句から何を伝えようとしているのでしょう? 「国家の最高権力者なんて所詮ただの人に過ぎない。あり余るカネと、過去から継承した偉大な立場はあれど、丸裸にしたらさぞかし哀れだろうな。神の壮大な目的からすれば、何とちっぽけな世界なんだろう。元々それを持っていなかったなら、彼はどんな人生を歩んでいたのだろう、彼は滅びるのだろうか? もし彼にチャンスが与えられるなら、今度こそ真理を愛するようになるだろうか?」 上流階級とも付き合いがあったヨハネには、彼らにしか分らない心の闇が少しは見えたのかもしれません。もちろんイエスにはそれがはっきりと見えたでしょう。人を裁くには、まずそれが完全に見える必要があるのです。見えないのに裁くことが世界中で広がっています。それは偏見であり、すべてが偏見によって埋もれてしまう日が迫っています。その時、大患難は勃発するでしょう。

そして、気まずくなったアンナスは24節にある通り、イエスを縛ったまま大祭司カヤファのもとに送ります。