3月12日 今日はヨハネ16:8以降を扱います。
その者、つまり聖霊が到来すると何がどうなるのでしょう? イエスはこう言われます。「そして、その者が到来すれば、罪に関し、義に関し、裁きに関して、納得させる証拠を世に与えるでしょう。まず、罪に関してとは、彼らが私に信仰を働かせていないからです。次いで、義に関してとは、私が父のもとに行き、あなた方がもう私を見ないからです。さらに、裁きに関してとは、この世の支配者が裁かれたからです」。
「納得させる証拠を世に与える」という部分の訳は、他の聖書では、「世の人の目を開く」とか「世にその誤りを認めさせる」または「世の誤りを明らかにする」などとなっています。後者の二つには「誤り」という語が含まれていますが、前者には含まれていません。つまり学者たちの間でも意見が分かれているのでしょう。元々原文に「誤り」という単語があれば、間違いなくそれを採用しているはずですが、それがない翻訳があるということは、無かったということになり、それを加えた翻訳は意訳である可能性があります。確かに、前者の二つでは、前後の文脈からいっても単語が何か一つ足りない舌足らずな表現で違和感があります。ところが、直後に記されている「罪」「義」「裁き」というそれぞれの項目に関するイエスの説明自体も、違和感のあるものとなっているので、これはあえてそうしていると考えるのが正しいことが分かります。
ではなぜ、そうしたのでしょう? それは、ここで言う「罪」「義」「裁き」が、いずれも神が扱う最高度のレベルであるため、人間から出た権威でこれらの誤りを判定することはできないためでしょう。実にそれは、物見の塔組織がこれまでよくずけずけと介入して来た領域なのです。しかし、それが出来るのは聖霊だけです。
すでに聖霊はイエスのもとに到来していたので、イエスが聖霊の意図したとおりに歩んでいれば、イエスと接触したすべての者は、内面に隠されていた「罪」が暴かれていたでしょう。そもそも律法がなければ「罪」も生じないと聖書にもありますが、元から律法が歪められていれば、「罪」の所在も当然変わって来るでしょう。実際イエスが出現した当時、律法は宗教指導者たちによって大きく歪められていました。それを歪めた人たちは臆面もなく自分たちを義と宣し、一方、歪められた律法を押し付けられていた国民、中でも立場の低い民衆は、「呪われたゲスども」扱いされていたのです。
しかし、だからといって、聖書自体が改ざんされていたわけではありませんでしたので、何が善で何が悪かを、この国民が知らないわけではありませんでした。そして遂に、イエスが聖霊と共に到来すると、歪められていた律法の解釈はすべて正しく矯正されたのです。それで、「罪」の定義はそこから新たにされましたので、真の信仰もそこから分れることになりました。歪められた律法をキリストに認めてほしかった人々はイエスを退け、それを正してほしかった人々は、イエスをキリストとして受け入れたのです。
次いでイエスは「義」に関して語られますが、「私が父のもとに行き、あなた方がもう私を見ない」ことがその証拠であるとされます。これはどういう意味でしょう? イエスは聖霊と共に現れ、その活動全体が神からの真理となりました。まさにイエスは生きた「義」そのものだったのです。したがって、イエスとその霊が地上から消滅すると共に、その「義」も消滅するはずでした。ところがどうでしょう。新たに聖霊が弟子たちのもとに到来すると、彼らも聖霊の導きのままに行動するため、彼らもまた生きた「義」となりました。その「義」は、この世の義とは明らかに違うので、この「義」があるところ、そこにはまた神の霊もあるという証拠を示すのです。しかし、もし世がそれを理解できなければ、納得どころか証拠にもならないでしょう。ですから彼らは、それを知っているはずなのです。
それでもし、ある旅行する監督が、「私は以前、伝道中に暴徒に絡まれたが、知り合いのやくざに危ないところを助けられた」という自慢話を耳にするなら、それははたして「義」なのでしょうか? もしそのやくざ者が、「この人には何も悪いことをしないでくれ、その代り私を気の済むまで殴ってくれ」というならそれもありでしょう。しかし、「てめぇらみなぶっ殺してやる!」と脅していたなら、いかがなものでしょう? ヨハネ18:36にある、「私の王国がこの世のものであったなら、私に付き添う者たちは、私をユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう」の言葉の通り、それは世の義から出ていたことになります。
イエスは三つ目に「裁き」に関して語られました。「この世の支配者」つまり悪魔サタンが「裁かれた」、それは、彼の永遠の滅びの刑が確定したということでしょう。それも、イエスが聖霊によって油注がれてからその時に至るまでのあいだに、その決定がなされたようです。そしてそれは、聖霊のなせる業でもあったということです。つまり聖霊は、それにどこまでも従順に付き従う者と、どこまでも抵抗し冒とくする者とを明確に分離してゆく力でもあるのでしょう。ここまでの段階で、イエスと悪魔の両極端の性質は、もはや絶対不可逆的であると判断されているのです。では、その前だったら悔い改める道もあったのでしょうか? 残念ながらそうはなりません。悪い特質は一式のセットになってその人の個性を形成しているため、もはや矯正不能となっているのでしょう。特に霊者の場合は肉体を持たないので、その個体の思考回路は100パーセントその心とその内奥に属することになります。それでも悪魔は偽善の生みの親でもあるので、すぐにはその意図が見えにくいのです。
それに対して人間の場合は、不完全になった肉、つまり、生まれながらの罪を犯しやすい傾向をすべての者が持っているのです。しかもその度合いがピンからキリまであり、善悪の心に関係なくあらゆる組み合わせが考えられるのですから、いったいだれがそれを裁けるでしょう? 善人ヅラした悪魔がいる一方で、悪人ヅラしたプチキリストもいるのです。それでも聖霊は、その者の最も奥深い隠し部屋からその本性を探り出し、彼のあごにフックをかけて引きずり出して来るでしょう。