神の家紋が押された人たち | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

19日 今日はヨハネ1415以降を扱います。

 

イエスは「私の名によって」という言葉の意味を、このように分りやすく説明されます。「もし私を愛するなら、あなた方は私のおきてを守り行なうでしょう」。

イエスの内面を目標にしている者ならば、あえてここで、「私のおきてとは何ですか?」と尋ねたりはしないでしょう。それは外面重視のパリサイ人たちが、よくこのタイミングでする質問だからです。そしてそのような人種はこの力を受けることができません。16節以降でイエスはこう語られます。「そして私は父にお願いし、父は別の助け手を与えて、それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます。それは真理の霊であり、世はそれを受けることができません。それを見ず、また知らないからです。あなた方はそれを知っています。それはあなた方のもとにとどまり、あなた方のうちにあるからです」。

彼らはつい最近まで聖霊を使って病人の癒しなどを行なっていたので、その力をある程度は知っていました。とはいえ、裏切り者のユダもそれを知っていたのではないでしょうか? 「真理の霊」は、それとどこがどう違うのでしょうか?

 

ユダが使っていたといえば確かにそうですが、それを言うなら、悪魔や悪霊たちも霊の力を自在に操っているはずです。つまり、霊の力自体は霊の領域の普通の力ですから、もしそれを使えないなら、その者は意識だけが浮遊している活動力のない生命体ということになるでしょう。ですから、霊の被造物である彼らは、日常生活に全く困らない最低限の霊の力を自在に操れると考えるのが道理にかなった見方です。さらに、彼らにはそれぞれに与えられた任務があるでしょうから、当然その分の霊も付与されているでしょう。さらに、それぞれには自由行動さえあるはずですから、お小遣い程度の霊もあるでしょう。そしてそれぞれに与えられた力は、その使い道が本人に委ねられているゆえ、悪いことに使ったとしても、それはそのとおり働くのです。したがって、それらを「真理の霊」と呼ぶのは、かなり難がありそうです。

一方、西暦33年のペンテコステ以来、イエスの弟子たちに注がれたその霊は、最初のうちだけド派手に奇跡を起こすこともありましたが、やがてそれは止み、その面影さえ今では忘れ去られています。したがって、ド派手な部分は期限付きのオプションであったことが分かります。それを除けば、「真理の霊」のベースになっているのは、イエスを導いているのと同じ、純粋に神の精神に導かれた力であることが見えてきます。

 

いうなればこれは、「巨人の星」の主人公、星飛雄馬が、父から無理やりつけられていた矯正ギプスのようなものでしょう。そのギプスは、魔球を生み出すための筋力鍛錬が目的でしたが、「真理の霊」の場合は、神の心を子が知り、それを完全に自分のものとするためです。したがって、世はそれを知らず、知りたくもないので、見ることもないのです。もしそれを偽って受けたなら、使徒5111にあるアナニアとサッピラのような悲劇がほどなくして起きるのです。

また、それを受ける資格がある者でも、途中で心変わりしたなら、もはや彼は生き続けることはできません。霊の中で最も神聖な「真理の霊」に言い逆らい、冒とくしたことになるからです。イエスはこの霊に関して、「あなた方はそれを知っています。それはあなた方のもとにとどまり、あなた方のうちにあるからです」と言われましたが、それは彼らがその霊をまだ受けていない時のことでした。したがって、彼らの内にあった彼ら自身の精神構造の基盤は、神のそれと反りが合っていたのでしょう。

 

それにしても、矯正ギプスによって彼らの心が神のそれと全く同じになった後も、「真理の霊」が永久に彼らのもとにとどまる理由は何でしょう? それは、「真理の霊」が彼らの「姓」となり、彼ら自身の「霊」が「名」となるからでしょう。彼らは神の家族として迎え入れられ、その「姓」を永久に名乗ることになるからです。そう考えると、「イエスの名によって」という意味が、どれほど深く重いかが見えてきます。油注がれたクリスチャンはイエスの花嫁集団を表わしており、婿であるイエスは神の独り子です。この名の重みに耐えられなければ、もはや存在価値はないも同然でしょう。

いずれにせよ、「真理の霊」は無活動ではありませんので、取り付いた対象に対して、常に、「今、何をすべきか」を導き、警告し続けるでしょう。ルカ124748にはこうあります。「その時、自分の主人の意向を理解していながら用意せず、またその意向にそって事を行なわなかったその奴隷は、何度も打ちたたかれるのです。しかし、理解していなかったために打たれるべきことをした者は、少なく打たれます。実際、だれでも多く与えられた者、その者には多くのことが要求されます。そして、人々が多くをゆだねた者、その者に人々は普通以上を要求するのです」。

ご存じの通り、物見の塔組織は長年この聖句を見て見ぬふりしてきました。頭でっかちは理解していることを意味し、有名であることは多くを与えられていることを表わします。無視するなら、それは大いなる災厄を呼び込むでしょう。