11月7日 今日はヨハネ13:1以降を扱います。
場面は「最後の晩さん」としてよく知られている部分から始まりますが、こう記されています。「さてイエスは、過ぎ越しの祭りの前に、自分がこの世を出て父のもとに行くべき時が来たことを知ったので、それまでも世にあるご自分の者たちを愛してこられたのであるが、彼らを最後まで愛された」。
福音書筆者はすべてこの晩さんの記述を扱っていますが、使徒ヨハネはやはり、他の筆者が扱っていない部分を記しています。とりわけ、ここに記されている「愛」の意味を深く掘り下げると、「クリスチャンはどうあるべきか」、「人はどうあるべきか」という問題にたどり着くことが分かります。
イエスは、人類を代表して目の前にいる使徒たちを、「世にあるご自分の者たち」と認識しておられますが、それは、彼らを通して今後数十年の間に行なわれる業が、その後の現代にまで至る型ともなっているからです。イエスが彼らを最後まで愛されたのなら、彼らもまた、だれかを最後まで愛さなければなりません。そして、その型は全地に広められ、最終的に全地はその精神で満ちるのです。
そのようなわけで2節に、「それで、晩さんが進んでいる間に、悪魔はそのときすでにシモンの子ユダ・イスカリオテの心に彼を裏切る考えを入れていたのであるが」と記すことによって、「愛」とは全く正反対の精神を十二使徒のひとりが持っていたことを際立たせていたのでしょう。当時の使徒たちは、まだだれも完成された「愛」を持っていませんでしたが、逆にユダは、この時完成された悪魔の精神を持っていたのです。堕ちてゆくのは何と簡単で速いのでしょう!
当然のことながら、どの福音書筆者も自分がそれを筆記する時には、それまで使徒の一人であったユダ・イスカリオテがイエスを裏切った事実を知っていましたが、使徒ヨハネほどにユダの精神を追及することはありませんでした。このことは、彼がイエスから別の意味で「愛された」こととも繋がっているのでしょう。単に悪いものを避けるだけでなく、なぜそれが悪いのか、どこからそれが生まれたか、どうすればそれを防げるのか、こうした事はすべての者が探究するわけではありませんが、だれかが行ない、それを何らかの方法で表現することによってすべての者に益となります。使徒ヨハネは、生まれながらにそうした素質を持っていたのでしょう。
4節からは、イエスが弟子たちの足を洗う有名なシーンが始まりますが、その直前の3節にはこうあります。「イエスは、父がすべてのものを自分の手中にお与えになったこと、そして自分が神のもとから来て、神のもとに行こうとしていることを知って」。
どうでしょう? 普通の人間の感覚からすると、この一連の言葉の流れは、自然に入ってこないのではないでしょうか? というより不自然です。なぜこうした表現になっているのでしょう? おそらく今イエスの内面では、とんでもない状況が起きているのでしょう。霊の領域で霊者として過ごした長い年月の後、イエスは霊の体を脱ぎ捨て、今まで経験したことのない肉体を身に着け、人間の世で人間として暮らすことになりました。これ自体も異常なことでしたが、今度はまた、その肉体を脱ぎ捨てて、霊者として霊の領域に戻って暮らすことになろうとしているのです。したがって、これまでの人間の感覚ではその次元の変化に付いて行けないため、内面ではすでに霊の世界モードへの切り替えが始まっているのでしょう。これは、天に召された者たちが、自分の定めの時が近づいた時、それを敏感に感じ取ってモードの切り替えをする心の準備が必要であることを教えているのでしょう。ヨハネはそのことを自分の実体験から感じ取り、イエスの当時の心を察したのです。
しかしイエスの場合、自分自身の切り替えだけにとどまらず、弟子たちへの接触方法も切り替えしなければなりません。人間として彼らに接触できる時間はわずかしか残されていません。それを過ぎると、イエスが彼らに接触する方法は霊の導きだけになります。それまでのあいだに、彼らは霊の言うところの意味を悟る術を身につけることが必須となるでしょう。とはいえ、霊を受けた者は自然と霊に敏感にならざるを得ません。それは生まれたばかりの子供が生まれながらに持っている本能とよく似ていますので、さほど心配はありません。それでイエスは、本能ではできない事柄について心配され、強烈な教訓を彼らにお与えになります。4,5節にはこうあります。「晩さんの席から立ち、自分の外衣をわきに置かれた。そして、ふき布を取って身に帯びられた。それから、たらいに水を入れて弟子たちの足を洗い、身に帯びたふき布でふき始められた」。
イエスはこうなることを予期していたでしょう。「たらい」と「水」と「ふき布」が視覚に入って来た時、使徒たちは、「だれが足を洗ってくれるのだろう? いや、だれがやるのだろう? この中で一番の下っ端はだれだろう?」などと考えていたことでしょう。案の定、汚れたままの足で晩さんは始まります。「あれ? もしかして、俺たち試されている?」。一人を除いてはみなそのことで頭の中がいっぱいだったことでしょう。