6月13日 今日はヨハネ9:8以降を扱います。
イエスに癒された盲人が見えるようになって戻ってくると、以前の彼を知っている人々はこう言います。「これは、いつも座って物ごいをしていた男ではないか」。
しかしある者たちは、「これはその人だ」と言いますが、ある人たちは、「いや、違う、ただ似ているだけだ」と言います。この盲人の眼球が以前から開いた状態だったのか閉じた状態だったのかは分かりませんが、生き物の内面が目に現われるのは疑いのない事実です。ところが盲人の場合それが感じられないでしょう。視力に全く異常がなくても、自閉症の人のように目の印象が眼球の開いた盲人のような場合もありえます。全く同じ人物でも内面が変わっただけで違う人物に見えることもありますし、逆に外面が全く違っていても内面が同じならその人だと気付くこともあるでしょう。とはいえ、すべての人が同じものを見て同じく感じるわけではありません。人の見る点も関心事も様々だからです。したがって、目が見えるようになった彼が、周りからどのように映っていたのかは千差万別です。
しかし当人自身が、「私はその者です」と言ったので、人々は彼にこう質問します。「では、どうしてあなたの目は開いたのか」。
彼は答えてこう言います。「イエスという人が粘土を作って私の両目になすりつけ、『シロアムに行って洗いなさい』と言いました。それで、行って洗いましたところ、見えるようになったのです」。
当然彼らはイエスの居場所を尋ねますが、彼は「知りません」と答えます。実際彼は癒してくれたイエスの顔を見たことがありませんし、シロアムに行っている間にイエスはその場を去ってしまい、もはやその場にはいなかったようなので、確認のしようがありませんでした。それで彼らはその人をパリサイ人のところへ連れてゆきます。14節には、「なお、イエスが粘土を作って彼の目を開けたのは安息日であった」とあるので、彼らは悪魔の霊に導かれてパリサイ人のところへその人を連れて行ったのでしょう。彼らにとってイエスを攻撃できる唯一のポイントは、「安息日に仕事をしている」ということしかないからです。
それで今度はパリサイ人たちが、どのようにして見えるようになったのかと彼に尋ねはじめますが、彼は同じように、「その人が粘土を私の両目に当てました。そして私が洗いましたところ、今は見えるのです」と答えます。すると案の定パリサイ人のある者たちがこう言いはじめます。「これは神からの人ではない。安息日を守っていないからだ」。
ところが、ほかのパリサイ人たちはこう言います。「罪人である人が、どうしてこのようなしるしを行なえるだろうか」。
記されてはいませんが、おそらくこう言った彼らは、ニコデモとアリマタヤのヨセフでしょう。彼らパリサイ人の間には分裂があって、これは今に始まったことではなかったのでしょう。とはいえ、数の点では多勢に無勢であり、外面上は善意の勢力も、やがては悪意の人々に呑み込まれてゆきます。
彼らはその人の内面を試すため、質問を変えてこう言います。「彼があなたの目を開けたことからして、あなたは彼について何と言うか」。
これは事実上の脅しですが、その人はためらうことなく、「彼は預言者です」と答えます。「盲蛇に怖じず」と言いますが、彼は見えるようになった後も、その信仰の精神は健在でした。いや、キリストによって癒されたのだから、むしろ以前より強力になっているでしょう。しかし、イエスをキリストと絶対に認めたくない邪悪なパリサイ人たちは、盲人が奇跡の業によって見るようになったという事実を揉み消すため、その人の親を呼ぶよう命令し、今度は親をこのように脅しにかかります。「これは、生れつき目が見えなかったという、あなた方の息子か。では、現在見えるのはどうしてなのか」。
「それを言ったらただでは済まないぞ!」。裏にそんな圧力が見て取れます。それで彼の親たちは無難にこう答えます。「これが私どもの息子で、生れつき目が見えなかったことは知っております。でも、今見えるのがどうしてかは知りませんし、だれがその目を開けたのかも知りません。彼にお聞きください。彼は大人です。自分で話すはずです」。
実の親とは思えない、何と無関心でよそよそしい返答でしょう。22節にある通り、彼らはユダヤ人、つまりパリサイ人たちを恐れていたのです。「ユダヤ人たちはすでに、だれでもイエスをキリストと告白する者がいれば、その者は会堂から追放するとの合意に達していたからである」とありますが、キリストを長いあいだ待ち焦がれていた人々の実際の姿がこうだったのです。彼らのせいで多くのユダヤ人が散らされているのです。これは一つの型に過ぎません。今日、油注がれた者が出現する地域の物見の塔の会衆には同じ現象が生じているでしょう。