4月4日 今日はヨハネ7:25以降を扱います。
しかしイエスの言葉に対して、エルサレムの住民のある者たちは一方でこう言いはじめます。「これは、彼らが殺そうとしている人ではないか。それなのに、見なさい、公然と話しており、彼らは何も言わないのだ。支配者たちは、これがキリストであることをはっきり知るようになったわけではあるまい。それどころか、私たちは、この人がどこから来た者なのか知っているではないか。しかし、キリストが来るときには、それがどこから来た者なのかをだれも知らないはずだ」。
この「ある者たち」とはいったいだれなのでしょうか? 支配者たちを恐れず真実を勇敢に語っているようですが、かといって、イエスがキリストであることを認めているようには見えません。それでも、この人たちが語った言葉から、イエスについて群衆がどれほどの知識を持っていたのか、支配者たちがイエスを殺そうとしていたことをだれもが知っていたこと、彼らの洞察によって「支配者たちの権威も当てにはならない」と見破られていたことなどが分ってきます。
もちろんこの記述はここだけにしかありませんが、使徒ヨハネはなぜこの部分を記したのでしょう? いつの時代でもそうですが、たとえその国が力を振りかざして民を無理やり従わせていたとしても、支配者たちはそうした横暴を多少なりともカモフラージュするために、権力者側の層には公正な見方をする人物もいると思わせるための人材枠を設けて、これを保護し、安心イメージをアピールしています。つまり、国家に対して反対意見も言える人をちょっとだけ出し、民主主義感を漂わせて民を安心させるのです。本来ならそのような人物は極少数で、その意見も完全に無視されてしまうため、民に与える影響はありませんが、イエスはその人物の出現と語るタイミングを見逃さず大いに活用されました。こう叫ばれたのです。「あなた方は私を知っており、私がどこから来たのかも知っています。また、私は自分の考えで来たのではありません。私を遣わした方が実在しておられるのですが、あなた方はその方を知りません。私はその方を知っています。私はその方の代理者であり、その方が私を遣わされたからです」。
イエスは最初、みんなが知っている彼らの発言を全く否定せず、ただオウム返しすることで彼らを納得させました。しかしその直後、むしろみんなが知らない裏事情の部分に注目させ、彼らの興味を最大限に引き出しました。その際、ご自分が「キリスト」であることをはっきりとは触れず、はっきりした「神」という言葉は避けつつも、自分の背後に神がいることはちらつかせ、ベールで包むような言い方をすることによって、彼らの好奇心をますます刺激します。これによって31節にある通り、「それでも、群衆のうちの大勢の者が彼に信仰を持った」という結果を得ました。彼らは自分の頭でこれまでの事の成り行きを回想し、「キリストが到来しても、この人が行なったよりも多くのしるしは行なわないのではないか」という結論に達します。つまり彼らは、イエスと鈍い反応の群衆のと間に入って触媒や酵素のように反応を加速させる働きをする人々で、彼らによって眠っていた信仰の層が開拓されます。彼らは少数ですが、常に民の中に一定の割合で存在します。
ある人に関して真実が知りたくても、国家がそれを妨害するなら、永久に真実は埋もれてしまうでしょう。物見の塔組織も自分たちにとって都合の悪い人物は、その言い分が正しくても背教者扱いするでしょう。したがって彼らの言いなりになるだけなら信仰とはほど遠い世界に住んでいることになります。彼ら自身が公言しているように、「私たちには霊感がない」というなら、自分たちの出版物以外を読むことを禁ずる理由はないはずです。他の書物と比べられて恥ずかしくないなら、もっと堂々としていればよいのではないでしょうか?
今回登場した人物のように、まわりの空気を読まない勇敢なコメンテイターが、皆が口裏を合わせたように避けている真実をボロッと言ってしまって、周りの人々を困惑させる様子はテレビ番組でも時々見かけます。しかしここが重要なのです。だれがそれを語り、だれがその言葉に反応したでしょうか? 真実が故意に誤報されているなら、私たちはそれを捜して見つけなければなりません。真実を知っている者は表舞台には登場しないことがほとんどだからです。実際イエスは世の歴史にはほとんど出て来ません。出ていたとしても常に誤報されています。なぜでしょう?
世の支配者が彼を憎み嫌い、殺そうとしているからです。30節に、「このゆえに、彼らはイエスを捕まえようとうかがうようになったが、彼に手をかけた者はいなかった。彼の時がまだ来ていなかったからである」とある通り、「定めの時」まであと半年ほどありましたので、イエスを捕まえて処刑するためのどんな努力も徒労に終わっていたのです。
世の歴史には登場しなくても、当時のイエスは確実に人々から見える場所で活動して大いに目立っていました。当時最も優秀で著名な歴史家はいたはずですが、彼は民に対してほとんどイエスの真実を伝えていませんので、当然民の反応も知ることができません。そのイエスのありのままの姿を正しく書き記した書物は福音書以外にはないのです。さらに使徒ヨハネが書き記したここの部分は、イエスだけでなくその周りの人々のレアな反応まで伝えている点で貴重だと言えるでしょう。これが現代にも通じているからです。しかし、このレアな反応を示した人々こそが、「引き網の例え」の中のすなどられた住人であり、(もちろん殺し屋たちは言うまでもなく滅びですが)これらの中から分離されて「羊とやぎの裁き」、つまり「この事物の体制」の終わりに究極の裁きを受けるのです。それ以外の人々は「新しい世」でもう一度試されます。