犬死は許されない | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

314日 今日はヨハネ71以降を扱います。

 

1節に記されている通り、イエスは引き続きガリラヤ地域一帯を宣教のために回っておられましたが、その理由の一つとして、「ユダヤ人たちが彼を殺そうとしていたからである」とあります。2節に、「ユダヤ人の祭り、つまり幕屋の祭りが近づいていたからである」とあることから、地上での歩みも残すところ半年となっていましたので、イエスの存在は、エルサレムの殺し屋集団と化していた宗教指導者たちの間でもよく知られ、指名手配同然の状態だったでしょう。もちろんイエスは殺されるのが怖くて消極的に見える行動をとっていたわけではありませんでした。残された時間を最大限有効に活用するため、霊の導きに従い、すべてのことに関してタイミングを計っていたのでしょう。

ところが、その様子を観察していたイエスの異父兄弟たちにはそれが分かりませでした。イエスを、「地元でもたついている意気地なし」と見なしてこう言います。

 

「ここから進んで行ってユダヤに入りなさい。あなたの弟子たちも、あなたの行なう業を見るようにするためです。自分では公に知られることを求めながら、物事をひそかに行う者はいないからです。これらの事を行なうのなら、自分を世に明らかにしなさい」。

何と偉そうな態度なのでしょう! おそらく二十数年もの間、彼らはこの「神の子」と共にひとつ屋根の下で暮らしてきながら、彼に対して何も感じるものがなかったのでしょうか? いやむしろ、ヨセフとその異母兄弟の劇のように、イエスが完全だったからこそ、自分たちのうちにある劣等感が彼に対して嫌味な行動をとらせていたのかもしれません。また、イエスがそうした仕打ちに対して常に冷静で穏やかだったので、逆にそれも腹立たしかったのでしょう。彼らがイエスにした僭越な指示は、動機も内容も全くの的外れでした。

 

それもそのはずでしょう。彼らが思い描いていたイエスは、彼が出家する前までの記憶に基づくものであり、その後のイエスにどんな劇的な変化があったのかは全く知らなかったからです。5節には、「実のところ、その兄弟たちは彼に信仰を働かせていなかったのである」とありますが、イエスがどんなに奇跡の業を行ない、どんなに立派な教えを語ろうとも、彼らにとってイエスは、まだキリストではありませんでした。肉の目でしか彼を見ることができなかったのです。

それでも、少なくとも彼らの内の「ヤコブ」と「ユダ」に関して言えば、彼らは後にエルサレム会衆の年長者となり、聖書の一部を書き記す任務も神から与えられています。その時、もはや彼らにとってイエスは肉の兄弟ではなく、「神の子」でした。彼らがそれを書き記す時、常にまぶたのスクリーンに浮かんだのは、共に暮らしたころの、イエスの完璧でありながら控えめで模範的な行動だったでしょう。それでイエスは彼らにこう言われます。「私の定めの時はまだ来ていませんが、あなた方のその時はいつもそこにあります」。

 

続いてイエスは、「世があなた方を憎む理由はありません。しかし、私のことは憎みます。私が世に関し、その業が邪悪であることを証しするからです。あなた方は祭りに上って行きなさい。私はまだこの祭りには上って行きません。私の定めの時はまだ満ちていないからです」と言ってガリラヤにとどまっておられました。イエスから見れば彼らはまだ「世の者」でした。もし神の霊の導きではなく、「世の者」である彼らの言葉に従って行動していれば、イエスの命は「定めの時」の前に終わってしまったことでしょう。それでイエスは、今は彼らにどう思われようと、臆病者に見られようと、不必要に肝試し的な行動をすることはできませんでした。

物見の塔組織も同様で、しだいに「世の霊」に傾きつつあるなら、もはや世から憎まれる理由はないでしょう。「世の霊」のどこが悪いのか、その業のどこが邪悪なのかをはっきりさせないと、ますます世に呑み込まれてゆくでしょう。犯罪者の隠蔽で世から憎まれても何の功績にもなりません。

 

10節を見ると、「しかし、兄弟たちが祭りに上って行ってしまうと、そのときご自身も、表だってではなく、忍ぶようにして上って行かれた」とありますので、殺し屋たちはイエスの親族も犠牲にする可能性を秘めていたのでしょう。上京するための道路はごく限られていますので、わなを仕掛けるなら人気のない峠はもってこいです。しかし肝心のイエスがいなければ手出しする理由がありません。イエスの側としても、弟子とそうでない者が共に同じ苦しみに遭うのは紛らわしいものですし、そもそも弟子でなければ指示は通らないので、彼らを危険に晒すことになるでしょう。この点でもイエスは、肉の親族と霊の親族をきっぱりと区別しておられたのでしょう。

今の時代、邪魔者を消そうと思えば暗殺する方法はいくらでもあるでしょう。「ユダヤ人たち」、つまり宗教指導者たちは「イエスを殺そうとしていた」とありますが、そうした暗殺に関してはどこにも記述がありません。

 

しかしそれは、そのような企みがなかったという理由にはなりません。殺す者は目的を遂げるためにあらゆる方法を試すからであり、暗殺はこの時代でも手っ取り早くて有効な方法だったはずだからからです。どんな方法であれ、イエスがいなくなってくれればそれでよいのです。しかしそれが記されていないのは、イエスがあまりにもすばやく危険を予知して回避行動をとるため、敵たちはいつも出鼻をくじかれてしまい、すべての計画が計画の段階で中止になってしまったからでしょう。

またイエスとしても、そのような隠された方法で闇から闇へ葬られることだけは絶対に避けなければなりませんでした。多くの人々の面前で、「彼らの業が邪悪であることを証しする」任務が彼には課せられていたからです。