勇気と謙遜の先にある信仰の報い | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

621日 今日はヨハネ149以降を扱います

 

イエスの放った「フィリポがあなたを呼ぶ前、あなたがいちじくの木の下にいた時に、私はあなたを見ました」という預言者的な言葉に衝撃を受けたナタナエルは、すぐさまイエスを受け入れてこう言います。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。

ナタナエルが語った「神の子」という言葉は、実際にはどのような意味でとらえていたのでしょう? 30年前にベツレヘムで起きたキリスト誕生事件が、何らかの方法で伝わっていた可能性はありますが、この一家が一度エジプトへ逃れた後に、再入国してナザレで生活していたことはほとんど知られていなかったでしょう。それは秘かに行なわれていたことだったからです。当時、ベツレヘムとその周辺地域の二歳以下の男子すべてがヘロデによって除き去られたことは、ユダヤ人の歴史に深く刻み込まれていたはずですから、「神の子」「イスラエルの王」が生まれたことを彼らが知らなかったわけではありませんが、ほとんどの人が、「赤子は殺された」とあきらめていたことでしょう。とはいえ、その子が本当に神の「初子」で「独り子」であり、「天から来た」と知っていた者はいなかったでしょう。

 

つまり、ナタナエルが悟ったのは、「あの30年前の事件の後、神の導きと保護により、キリストはヘロデの難から逃れ、こうしていま再び人々の前に現われているのだ」ということなのでしょう。外見30歳のイエスともピッタリ一致しています。霊的な考え方が身に着いている人なら、ここまでは普通です。それでイエスはこう言われます。「いちじくの木のすぐ下にいるのを見たと私が言ったので、あなたは信じるのですか。あなたはこれより大いなる事を見るでしょう」。

イエスのこの言い方は、ナタナエルに対するイマイチ評価にも聞こえますが、そうではないでしょう。実際イエスの心はナタナエルの信仰ゆえに沸き立っておられます。将来の使徒たちがとんとん拍子に集められて行く様子に、み父の霊の導きを感じて喜びで満ち溢れていたでしょう。それでイエスは、「その信仰があるなら、もっとすごい奇跡を体験できるのです」と彼を励ましておられたのでしょう。

 

51節ではさらにこう言われます。「きわめて真実にあなた方に言いますが、あなた方は、天が開けて、神のみ使いたちが人の子のもとに上り下りするのを見るでしょう」。

この状況はいつ起きたのでしょう? 実際にみ使いたちが地上に現われたのはイエスの処刑後であり、その前にはありませんでした。ゲッセマネの園でみ使いが現れてイエスを励ましたことがありましたが、その時の使徒たちは極度の睡魔に襲われており、み使いを見る機会を得損なったのでしょう(ルカ2243)。

また、イエスが復活された際、み使いたちが人間の前に現われ会話を交わしましたが、それを実際に体験したのは姉妹たちであり、兄弟たちではありませんでした。では、なぜイエスは「見るでしょう」と言われたのでしょう? それは、この言葉の中に「もし信仰があれば」という言葉が隠されているからです。彼らは「逃げた」ので、また「疑った」ので、その機会を逃してしまったのです。み使いたちが現れて人の子に仕えたのは、イエスが天に上げられるまでですから、それ以降この聖句の有効期限は消滅します。

 

とはいえ、地上にイエスなきあと、彼ら自身にみ使いたちが仕えるということは時々生じていたようです。その時の彼らは、恐れを知らず信仰に満ちあふれていました。何のはばかりもなく自分の信仰を告白できることがどれほど爽やかな気分をもたらしてくれるのか、かつて後ろめたさを存分に味わった彼らは、二度とその時代に戻りたいとは思わなかったでしょう。後に成長したナタナエルも、イエスのこの言葉を何度も反芻して、イエスに褒められた時の自分の内面を絶対に失わないようにしようと戦ったことでしょう。

み使いたちは、「み使いを自分のためにこき使ってやる」と意気込んでいる者には無視するでしょう。ですから、だれが最初に言い始めたのか、「み使いと共に働く」などと人間の側から軽々しく口にすべきではありません。彼らは、命がけで神のため隣人のために働いている謙遜な僕のもとにさりげなくやって来て、その手を強力に支えてくれるのです。それは今日でも変わりないでしょう。